太田述正コラム#4372(2010.11.12)
<『吉田茂の自問』を読む(その3)>(2011.2.25公開)

 「米英・・・両国の当局者も国民<は、>・・・日独伊というような国は、やはりワンス・アンド・フォア・オールに片付けてしまわなかれば、将来に禍根を残すというような気持ちであったろう。従って、ネゴシエイテッド・ピースの余地は、初めからなかったかも知れない。」(202〜203頁)

→中身を問題にしたいのではなく、「公文書」であるにもかかわらず、この報告書における英語を多用する書き方が大変気になったので、その端的な一例として引用しました。
 この報告書の提出相手の吉田は元外務官僚ではあっても、あくまでも首相なのですから、仲間内の話法を用いたというのは言い訳になりません。
 これまでの引用の中にも、既に「インフレクシブル」、「イニシアティヴ」(2回)、「グランドデザイン」が登場ていましたね。
 特段英語を用いなくてもよい箇所であえて英語を用いるところに、(今でも変わっていないと思いますが、)戦前から戦後の頃の外務官僚達の鼻持ちならないエリート意識、というか、独善性を見る思いがしますし、これは、報告書作成にあたっての緊張感の欠如を物語っているとさえ言いたくなってしまいます。(太田)

 「外務当局は、ソ連による中立条約の廃棄の重大さを自覚もせず、又、かりに自覚していたにしても、これを終戦をもたらす上に国内的に利用しようとはしなかった。又、ドイツ降伏に際しては、少くとも表面上は、三国条約等が当然失効したものと認める旨の発表をしただけであった。この時、政府当局者、特に外務当局が、8月の終戦の際位の意気込みで、強く終戦を主張したら、目的を達することができたかも知れない。少くとも、ポツダム宣言が発出された時、これを受諾するだけの精神的な準備はできたのではないかと思われる。」(204頁)

→これは、この報告書中の数少ない正論の一つです。
 ただし、そんな見識と気概が当時の外務省には全くなかった以上、これは作文に過ぎません。
 なお、いずれにせよ、ポツダム宣言は無条件に受諾することにはならなかったでしょうね。(太田)

 「ソ連を日独伊三国側に抱き込むという夢が独ソ開戦によって破れた以上、これを前提とした外交政策は、一切ご破算とすべきであった。日独伊三国条約をご破算にしていたら、日米交渉にも本気にかかれたであろう。・・・行懸りにこだわることの禁物なゆえんである。」(223頁)

→これも、この報告書中の数少ない正論の一つであり、ドイツが日本に対する背信行為を行ったとして、当時、外務省の外からもそういう声がどうしてもっとあがらなかったのか不思議でなりません。
 しかし、残念ながら、この報告書は、ここでもその分析を怠っているので、将来の参考にはなりそうもありません。
 思うに、「行懸りにこだわる」というより、条約類は遵守しなければならない、という日本の律儀さが裏目に出たということなのでしょうが・・。(太田)

 「実利主義ということからいえば、戦争をすることは、いつの場合でも損になるに決っている。少くとも、現代においてはそうである。まして、国力不相応の戦争を自らはじめるにおいてをやだ。・・・戦争を前提とするからこそ、石油も足りない、屑鉄も足りない、ジリ貧だということになる。戦争さえしなければ、生きて行くに不足はなかったはずである。」(224〜225頁)

→「国力不相応」の戦争は行ってはならないということすら(ペルシャ戦争等を引き合いに出すまでもなく)ナンセンスに近い(コラム#4116)のですが、全般的に一切の戦争を否定しているように読めるだけに、暴論に近い箇所であると言えるでしょう。
 吉田ドクトリンを見事なまでに先取りしていますね。
 そもそも、太平洋戦争に関しては、英国の陰謀に米国が乗ぜられ(たフリをし、)日本が開戦を強いられたものであることを、この報告書は全く無視しています。
 クレイギーは「<ハルノート・・・については、私は、>そのすべてが日本がまず戦場において敗北を喫さない限り、受け入れる可能性が皆無であることを米国政府は自覚しているべきだった・・・」と記しています(コラム#3968)が、この報告書作成プロジェクトチーム員達は、クレイギーに説教するつもりのようです。
 更に言えば、(私としても、ここはもっときちんと検証する必要がありますが、)1940年中、そして遅くとも1941年初までに、必ずしも「国力不相応」とは言えないところの、日本による対英(だけ)開戦を押しとどめた外務省の責任に口を拭っているのはいかなる料簡なのでしょうか。(太田)

3 「「日本外交の過誤」に関連する諸先輩の談話及び省員の批評」より

 (1)最初に

 この部分は、関係者の証言録であり、自ずから自己弁護がなされるでしょうが、このようなものを作成し、記録にとどめることには大いに意義があったと思います。
 しかし、当然のことのように、陸軍出身の宇垣一成(外相)、大島浩(駐独大使)、海軍出身の豊田貞次郎(外相)、野村吉三郎(外相・駐米大使)らの証言は登場しません。
 全くの部外者どころか、政治的任命職であるとはいえ、外務省の仕事をした部外出身者の証言すら求めないのですから、この報告書が身内の論理で貫かれたものとなったことは、この点だけからでも必至であったと言うべきでしょう。(太田)

 (2)掘田正昭(1883〜1960年。欧米局長・駐イタリア大使等)

 「<ロンドン海軍軍縮条約への加入をめぐる1930年の>統帥権問題<が、>軍令部総長の加藤の帷幄上奏の問題に関連して<起こった>。・・・日本外交の過誤の背景をなす軍部の横暴の発端がここに開かれた。そしてこれに政党がついて来た。・・・政友会は民政党内閣を海軍問題で落とそうとかかった。・・・政友会は元々・・・侍従長・・・に不満を持っていた。・・・
 も一つの悪い結果は海軍の青年将校で陸軍の青年将校と一緒になって騒ぐ奴が出て来たことである。
 外交の過ち[り]を犯させるに至った根本の原因は軍部が外交に口を入れるようになったことである。これは絶対にさせてはならない。」(232〜233頁)

→第一に、かつて私が、「統帥権・・広義であれ狭義であれ・・を干犯するとかしないとかは、本来、帝国憲法(の解釈)とは何の関係もない事柄です。(戦前、慣例上、狭義の統帥権たる「軍事作戦の立案や指揮命令」権、すなわち軍令権を軍人に委ねていたことについては、一つの見識であり、いずれにせよ、時代の変遷とともに変わり得たことでした。)統帥権干犯問題とは、にもかかわらず、政党(政友会)が、軍政に係る事柄について、統帥権干犯なる言葉を用いて政争の具に供した・・・、という、ただそれだけの話である、というのが私の認識です。」(コラム#4141)と記したように、この事案は、当時の日本で民主主義が機能していて、対外政策が世論によって基本的に形成されていたことの証左以外の何物でもありません。
 興味深いことに、掘田自身、「このことがあって間もなく海軍の内部で申合せが出来て、「この種の問題については軍<令>と軍政の一致がなければならない」ということが定められた。これによれば、軍令系統のことも軍政系統<(究極的には内閣(太田))>と相談しないで勝手なことをやることは出来なくな<った>わけである」(232頁)と、この事案のおかげで、狭義の統帥権の独立が否定された側面があることを認めています。
 第二に、かつて私は、「軍部の下克上は、直接民主制、すなわち究極の「文民統制」によって引き起こされた一時的病理現象です。」(コラム#2922)と記したところ、軍部における下克上とは、中堅将校達が、外務省等の横やりで世論に基づく対外政策の遂行を怠り続けていた(軍部を含む)政府に対して異議申し立てを行い、あるいは政府に代わって世論に基づく対外政策を直接遂行したものであって、いわば世論が直接外交を行ったに等しい、その限りにおける病理現象である、と認識することができるでしょう。
 以上からすれば、掘田は、自分が言及したこの二つの問題を、「軍部の外交への介入」などと総括すべきではなく、「世論による外交」と正しく総括すべきだったのであり、仮にそれが日本の過誤につながったとするならば、それは、世論が間違っていたとすれば外務省がかかる世論を正すための世論への働きかけを怠ったためであり、世論が正しかったとすれば、それは、外務省がかかる世論の円滑な遂行のための諸外国就中英米の政府や世論への適切な情報宣伝活動をほとんど行わなかったためである、と自己批判ないし外務省批判をしてしかるべきでした。
 それをやらなかった堀田は、外務省の職務怠慢を棚に上げて軍部に責任を転嫁した、と非難されてもいたし方ありますまい。
 ここにも、愚民観や軍事/軍隊忌避感情に根ざす吉田ドクトリンの萌芽が見られる、と言うべきでしょうね(太田)

(続く)