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太田述正コラム#4370(2010.11.11)
<『吉田茂の自問』を読む(その2)>(2011.2.24公開)

 「戦後に発表された米英側の文献からすれば、米国は、真珠湾攻撃等のことがなくても、いずれは欧州戦争に参加したであろうといい切ってよかろう。米国が日米交渉に応じたのも、話ができたら、欧州戦争に介入する場合の後顧の憂いが絶てるというところにねらいがあったと見るべきであろう。」(143頁)

→この箇所に限りませんが、この報告書、典拠がほとんどついていません。
 外国の話をする場合など、本来、絶対に典拠が必要ですが、戦前の外務省キャリアにも東大法学部に学んだ者が多かったところ、そもそも卒業しても短大卒相当であったわけですが、卒業すらせず、外交官試験に通って大学を中退するのが誉れだったときていたのでは、典拠をつける習慣が身についていなかったのは当然かもしれません。
 話は逆であり、真珠湾攻撃を含む対米英開戦がなく、なおかつ、条約上の義務がないナチスドイツが対米開戦をしなかったら、米国は欧州戦争に参加しなかったことはほぼ間違いありません。(太田)
 
 「条約<(日独伊三国同盟)>自体の目的について見ても、戦争中日独伊の間に具体的協力が行われたという事実は、ほとんどない。そういうことが行行(ママ)われうるような関係に初めからなかったのである。
 要するに、三国条約の締結も、百害あって一利なき業であった。」(144頁)

→クレイギーは、三国同盟は、日本にとって、一利どころか、相当の利があったと考えていた(コラム#3958、3960)わけですが、このくだりは、三国同盟推進の中心であった旧陸軍への敵意がこのような極端な表現を生んだのではないでしょうか。
 なお、敵の敵と誼みを通じるというのは、直接的なメリットがあろうとなかろうと、古今東西、行われてきたところであることは、あえて申し上げるまでもありますまい。(太田)

 「日ソ中立条約<を締結したものの、>その後いくばくもなくして独ソの開戦を見ている。又、この条約の締結によって、対米交渉を有利に導こうというのは、あまりに甘い考え方であり、米国のインフレクシブルな理念外交的的傾向や米国民の直情的な性向を見損ったものであった。」(144頁)

→「米国のインフレクシブルな理念外交的的傾向や米国民の直情的な性向」は、どちらかと言えば褒め言葉であり、米国の人種主義的帝国主義への言及がこのくだりだけでなく、この報告書の中で一切出てこないことは、戦前から戦後にかけての外務省が全く米国を理解していなかったことを物語っています。(太田)

 「松岡外相は、ロウズヴェルト大統領と同じように、・・・彼独自のグランド・デザインをもっていた。双方とも、野心的な性格から構想の大きいことに自負を感じていたこと、ソ連抱き込みをその一つの重要な支柱としていたこと、客観情勢のいかんはお構いなしにその偉大なる構想の実現を追求したこと、そして、この現実無視から結局大きな破綻を来したことに共通したところがある。しかし、ロウズヴェルト大統領の方は、戦争に勝つことが何ものにも優先する第一義的な目的であり、そして、この目的を達成するためには、ソ連の協力が必要であるという前提(軍当局の意見がそうだったのだから、これを採用したことについて大統領を責めるわけには行かないだろう)に立ってのことであるから、まだしも、いわゆるカルキュレイテッド・リスクとして合理性があったといわなければならない。」(156頁)

→米国の方は、1945年に入る頃までは、ソ連を敵であると考えていなかっただけではなく、そもそも国の存立が危ぶまれるような状況ではなかったのに対し、日本は、国の存立をかけて、敵であるソ連が当面対日戦を仕掛けることのないようにすべく必死であったわけであって、米日両国の対ソ政策を同列に論じること自体が間違っています。
 米国の方は、完全に対ソ政策を誤っていたのであり、戦争末期に米国はソ連の対日参戦を回避するのにやっきになるのですが、それに失敗することになります(コラム#2667、2669、2675、4110)。(太田)

 「<締結直後にナチスドイツの対ソ戦開始によって>四国協商の一支柱としての意味をもたない<ものとなった>日ソ中立条約の存在が、米国にとって対日関係上何等の重圧でありうるはずはなかった。又、中立条約の本来の目的について見ても、この条約の存在がソ連の対日宣戦をいくらかでも控えさせ、遅らせたとも考えることはできない。ソ連は、すでに欧州戦争勃発に際して、ポーランド、フィンランド等との不可侵条約を破っていた。対日宣戦も中立条約の有効期間中に行った。ドイツを片付けて余力を極東に振り向けられるようになり、又、日本が降伏の余儀なきことが明らかになるという最も都合のよい時まで待っただけの話である。」(158頁)

→ナチスドイツの対ソ戦開始は、自殺行為以外の何物でもなかったのであり、当時の日本政府が、そんなことを、ドイツが、しかも日ソ中立条約締結直後にやらかすとは予想していなかったことを責めることはできません。
 また、ソ連は、日ソ中立条約違反の誹りを免れるために、それなりの腐心をしている(コラム#4110)ことからも、同条約締結に全く意義を認めないのは行き過ぎです。(太田)

 「一体、ノモンハン事件以来の日ソ関係においては、外交のイニシアティヴは、常にソ連の手中にあったといえる。昭和14年9月15日、ノモンハンの停戦協定が成立するや昼夜を出でずして、ソ連軍はポーランドへの進撃を開始した。欧州戦争勃発後、日本側は、中立条約ないし不侵略条約締結の提案を何度も繰り返しているが、ソ連側は、北樺太利権の解消を要求して、容易に条約の締結に応じなかった。いよいよそれをソ連の方で必要とするに至って、最後のどたん場で、これに応じた。しかも、離間解消のコミットメントという景品まで付けさせることに成功した。
 このように、日本が対ソ交渉上、いつも劣位に立たされた根本の原因は、日本の米英との関係が悪化の一途をたどっていたことにあったと思われる。ソ連にしてやられるのは、米英と対立関係に入った日本の宿命であったといえよう。それにしても、これ程まで乗ぜられたということにはソ連という国家に対する根本の認識の甘さもあずかっている。これは、ソ連による中立条約廃棄通告の受け取り方とそれ以後における日本の対ソ折衝にもうかがわれる。さらに、・・・米英陣営に対抗する日独伊ソの連繋という・・・あまりに野心的、権謀術数的な大構想の罪もあげられるべきであろう。」(158〜159頁)

→「ソ連という国家に対する根本の認識の甘さ」は、米国>英国>日本、の順であり、このくだりの自虐ぶりは喜劇的ですらあります。
 また、「日本の米英との関係が悪化の一途をたどっていた」のは、米英側に非があるのであり、日本の対ソ観の妥当性について、米英政府や国民に対し情報宣伝活動をほとんどやらなかった外務省の責任も問われなければなりません。
 読むに耐えない、と言っておきましょう。(太田)

 「北部仏印進駐に関する日仏交渉の過程を通じて驚くべきことは、日本の南進に対するアメリカの強い危惧と警戒心や敵意を、日本の外交当局が当然それを知りながらも、やや実態よりも軽く考えていた節がみられることである。とりわけ、米側への説明や説得といった努力をほとんど行なっていないことが目につく。・・・
 こうした態度は、全て、日本の南進について米国は反対するけれども、それがゆえに日本と米国との全面対決には至るまいとする甘い読みが、外務省の一部を含め相当数の人々の心にあったからである。」(168〜169頁)

→ここでも、評論家的な記述にとどまっており、どうして肝腎の外務省がそんな甘い読みしかできなかったのかを究明しようとする気配が見られません。(太田)

 「日本は、日米交渉の最中の昭和16年7月、南部仏印に進駐した。これは、戦争を前提とする限り、必要な措置であったかも知れない。しかし、日米交渉の運命に対しては致命的な打撃となった。これに対抗して米国が諸般の対日圧迫措置をとったことは、当然であるが、これで日米交渉に対する日本の誠意を疑わしめることとなったことも大きい。
 日本は、米国が欧州戦争で英仏を積極的に援助した関係上、東亜において事を構えることを避けようとするであろうというところに賭けて、日米交渉に乗り出した。ところが、戦後発表された種々の資料によっても、当時米国の当局者は、さらに積極的に対独戦に積極的に介入したがっていたのであって、日本の真珠湾攻撃は、むしろ彼等をほっとさせたのである。当時の米国当局者の交渉にのぞんだ態度についても、戦後米国内で、交渉を成立せしむべきであったという見地から批判する者もあるが、しかし、米国の当局者が懸命であったかどうかは別として、日本側としては、こういう米国側の立場なり腹なりは、やはりそれとして計算に入れて置かなければならなかったはずである。
 なお、当時の英国も対日強硬態度を主張した。米国の態度が一時ぐらついた11月、チャーチル首相は、ロウズヴェルト大統領に親書を送り、蒋介石を見殺しにしてはいけない、日本人は当てにならないという趣旨のことを申し送っている。米国のみならず対独戦で弱り切っているはずの英国までも、想像以上に強腰だったわけである。」(191〜192頁)

→チャーチルは1940年5月日に(日本に対米攻撃をさせることによって)米国を欧州戦争に引きずり込む計画を思いつき(コラム#4214)、日本との外交交渉をあえて単細胞的(だとチャーチルが勝手に思い込んでいた)米国にぶんなげ、(結果的に)日本を追い詰めることに成功します。
 そして、翌1941年12月に「真珠湾攻撃<という日本の対米開戦という自分の工作成功>のニュースを聞いて<、チャーチルは>戦争の勝利を確信」するのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83
 ですから、例えば、1941年9月に米国が対日宥和に一瞬心を動かした時にも、彼は、米国を翻意させるために全力を挙げています。(コラム#3978)
 「対独戦で弱り切っているはずの英国までも、想像以上に強腰だった」などと寝ぼけたことをこの報告書は言っていますが、(クレイギー等から見れば、客観的には、同年11月の時点では既にドイツに勝ち目はなくなっていたところ、その時点からさかのぼればのぼるほど、)チャーチルは主観的には対独戦で弱り切っていたからこそ、彼は、米国を何が何でも欧州戦争に引きずり込みたかったわけであり、このチャーチルの意図を全く見抜けず、最後の最後まで米国より英国の方が対日宥和的であると信じ続けた当時の外務省の間抜けかげんには開いた口が塞がりません。
 しかも、この書きぶりからすると、戦後1951年の時点で、なお、当時の自分達の先輩達の間抜けさかげんにこの報告書のプロジェクトチーム員達は気付いていないように見えます。(太田)

(続く)

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