太田述正コラム#4366(2010.11.9)
<重光葵の世界観(その3)>(2011.2.20公開)

 「重光が中ソ大使時代・・・で最もこだわっているものの一つは、1937年11月・・・に締結された日独伊防共協定の存在である。・・・この協定の「防共」の側面には特段の異論がなかった・・・<が、>これによって対露関係は悪化し、対支、対英米関係においても「大なる犠牲を払はしめられ」たからであ<る>・・・。

→独伊よりも「赤露」の方がはるかに危険であるというそもそも論を展開しつつ、日本のソ連(ロシア)との関係が悪化するのは当然であるけれども日本の支那との関係が悪化するのはおかしいと思わないか、それは支那が容共に傾いているからだ、ということも一つの説得材料として、日本の外務省は対英国や対米国説得工作に全力を挙げるべきだったのに、重光自身、そのような努力を行った形跡が見られません。(太田)

 更に、1937年7月に<始まった>日中戦争・・・が重光にとっての第二の阻害要因となった。中国を「東亜の安定」という国策の協力者にしようとしていたのに、「支那事変は実際に於いて支那を敵としてしまった」のであり、・・・戦争の進行につれて、・・・「日本の敵が赤露であること」以上に、英米仏も「動もすると敵側に立ち兼ねましき形勢となったこと」を・・・重光は認識する・・・。そして、遂に「事実日本人と提携する有識支那人と共同した「新支那」を建設」し、「東亜の新秩序を樹立する外はない」と結論するのである・・・。

→繰り返しになりますが、蒋介石政権(支那)が「防共」戦略をとっている日本の敵になることを選んだ以上は、日本は戦わざるを得なかったところ、英米仏がかかる政権への支持・支援を続けるのはおかしい、と、とりわけ英国や米国に対し、それぞれの世論を含め、訴えなければならなかったというのに、そのような努力を、重光も外務省も行った形跡が見られません。(太田)

 しかし、駐英大使期の末期には、第三の、そして決定的と言える対外戦略が登場する。三国同盟(1940年9月締結)と日ソ中立条約(1941年4月締結)、その背後にある日独伊ソ四国協商構想がそれである。」(XLVII〜XLIX頁)

→英米が、不合理な、とりわけ英国が、自分の国益に相反する、極めて不合理な日本敵視政策を改めない以上、それに対抗するためには、緊急避難的に日本の生存を確保する算段を講じなければならなかったのであって、対英(だけ)開戦を、望むらくは前年の1940年中に、さもなくばせめて1941年の初期に敢行すべきであったところ、その機会を、主として(重光を含む)外務省の反対によって日本は逸してしまったわけです。そうである以上は、三国同盟のような、「赤露」なる敵の敵であるところの、本来日本とは相容れない独伊と手を結ぶことも、また、日独伊ソ四国協商構想のようないわば奇手を追求することも、それぞれ次善の策、次々善の策として、頭から排除すべきではなかった、と言うべきでしょう。(太田)

 「ドイツが結局ソ連と戦わずにフランスそしてイギリスとの戦争を選択したことは、重光によれば、「資本主義を国際的に破壊するためには資本国を相互に衝突せしめ自ら漁夫の利を収むること」を目指したソ連外交の勝利を意味した。こうして、世界はいずれ赤化され、「社会主義」の時代に突入するかもしれない・・・。・・・「近衛新体制」運動が進む日本政治も、・・・重光のいう「新社会主義」の方向に進むべきだとされることになる・・・。

→実際には、当時の日本では日本型経済体制が概成しつつあったところ、この体制は、日本の顔をした資本主義的戦時体制であって、「社会主義」でも重光の言う(必ずしも意味が明らかではないところの)「新社会主義」でもありませんでした。このあたりの重光のぐらつきは、前述したように、「「赤露」を包囲する多国間システムを束ねる共通の価値観を重光が提示していなかった、というか、提示できていなかった」ためでしょう。(太田)

 しかし、他方で重光の戦略の大枠は驚くほど変わっていない。重光は日本の欧州戦争不介入を絶対視する。日本の使命はあくまで極東に勢力圏を確保することにあるからである。・・・中国民族との提携を確立すべきであって・・・、世界を幾つかの勢力圏に分割する方針もまた不変である。・・・
 <しかし、>世界は共同してソ連の勢力圏構想を封じ込めるはずだったが、ソ連の赤化地域は・・・拡張しており、更に日本の担当地域は・・・イギリスの利害が及ぶ東南アジアにまで拡大しようとしている。また、イギリスは対独戦争の関係から再びソ連との提携を模索しはじめており、アメリカとともに日本を潜在的な敵と見ている。・・・日本もまた反英感情に溢れて、イギリスとの戦争(英米が合体政策に進んでいるのであるからそれは対英米戦争を意味する)に直進しているかのようである。・・・国内における親独派(枢軸派)の台頭とともに、日中戦争を解決できぬまま南進を開始し、ドイツ・イタリアとの軍事同盟を結び、そしてソ連とも提携して英米に対峙しようという戦略が、・・・ドイツの快進撃に触発されて勢いを増していった。」(L〜LI頁)

→結局、重光もまた、その他大勢同様、日本政府全体の動きに追随して行った、ということです。(太田)

 「重光は、<駐英大使当時、>イギリス政府との現実の外交交渉にも尽力する。ビルマルート封鎖交渉など<だ。>・・・<また、>1941年3月の松岡訪欧時に<上記戦略を推進していた>松岡とヨーロッパで会見しようとした・・・。・・・重光・松岡会談に際し、チャーチルが直筆で松岡へのメッセージを書き、それを松岡に会う重光に託そうとしたのである。これは結局、松岡の翻意によって挫折するのであるが、重光はあたかもイギリスと一体となって、日本の翻意を促しているかのようであった。
 しかし、重光は、松岡との会見の挫折によって、日英間の妥協成立の可能性を断念した。・・・こうして、重光が日本への帰国の途につくのは、1941年6月16日のことであった。その直後に独ソが開戦・・・する。重光はそのことをチャーチルに示唆された・・・。
→当時の英国のチャーチル政権は、「提携」していたソ連、ドイツの両国間にくさびを打ち込むとともに、ソ連と日本とを「提携」させないようにした上で、日本を対米開戦に追い込んで米国を対ドイツ戦に引きずり込むことを企んでいたわけであり、この企てと真っ向から背馳する松岡の構想を潰えさせることに全力を挙げていて、その手駒として重光が使われた、ということが分かります。結局、松岡による同年4月の日ソ中立条約締結により、この英国の企ては一旦挫折するのですが、同年6月のヒットラーの無謀な対ソ開戦によって、英国は救われることになるわけです。(太田)

 ・・・重光は帰国して日本国内から日本の外交を建て直すことに一縷の望みをかけていた節もある。その望みは、イギリス側の一部にも共有されていた。イギリス側では、松岡に代わり、重光が外相となって、日本が対英米協調に回帰するという望みすら抱かれていたのである。・・・
 また、ロンドンから離任後の重光は、いわゆる「日米交渉」に従来考えられている以上に深く関わっている。重光はアメリカ経由で帰国<し、>・・・8月1日にワシントンに到着すると、・・・J・K・ドラウト神父やハリファックス注米<英国>大使とも懇談し、イギリスに会談の仲介を依頼している。」(LII〜LIII頁)

→独ソ戦が始まり、チャーチル政権が、日本を対米開戦へと追い詰めることに全力を挙げていたことに重光は全く気付いていた気配がうかがえません。重光は、駐英大使であったにもかかわらず、英国について、とりわけチャーチルについて、全く理解することができていなかった無能な人物であった、と言わざるをえません。まさにそのような無能な人物であったからこそ、このように、重光は、英国によって、今度は、日米交渉に一縷の望みがあるかのような錯覚を日本に与え続けるために利用された、つまりはピエロ役を演じさせられた、というわけです。(太田)

3 終わりに

 松岡洋右は、外相として、三国同盟を締結するとともに、日独伊ソ四国協商構想を踏まえた日ソ中立条約を締結した責任者であり、戦後は、日本の戦前・戦中の軍人以外の指導者の中では、最も貶められてきた人物です。
 しかし、クレイギーは、彼の報告書の中で、この松岡に、東條英機に対すると同様、温かい眼差しを注いでいました。(コラム#3964)
 他方、重光についてですが、クレイギーが「数度に亘り<帰国してからの>重光と会談し、あるinformantとの会談として、重光との会談の内容を詳細に本国に伝えている。」(LIII頁)(例えば、クレイギーの報告書229頁(「報告者」や「頁」が何を意味するかは、コラム#3956参照)。)と武田知己が記しているところ、何故、報告書に登場するinformantを重光と断定できるのか、武田はその根拠を明らかにしていないけれど仮にそれが本当に重光であるとすると、重光は、結果的に英国のためのスパイとしてクレイギーに利用されており、クレイギーはそんな重光を軽侮していたものの、あえて武士の情けでその実名を明らかにしなかったのではないか、と勘ぐりたくなります。
 クレイギーが重光を軽侮していたとのこの私の勘ぐりがあたっていることを間接的に裏付けるように見えるのが、武田が紹介するところの、クレイギーによる、1941年7月28日の日本の南部仏印進駐直後の彼の重光(実名で登場)との会談の報告電報における、あたかも重光を日本の軍部のピエロであるかのように描く辛辣な重光評(LIV頁)です。
 付言すれば、重光は、(この点で吉田茂とは大違いですが、)この「外交意見書集」にその多くが収録されているところの、大量の外交意見書を当時書いただけでなく、英国で、(駐ソ連大使時代のものを含め、)それらを日本大使館に残してくるという愚行を犯しており、結局、それは英国政府の手にわたっています。(XVII)
 また、このような機微にわたる大量の(いわば私文書たる)外交意見書を書くこと自体が愚行であるのは、現に、彼の駐ソ大使時代、大使館員がこの外交意見書を清書する際に複写をとるために用いた複数のカーボン用紙のうちの1枚をソ連のスパイに抜き取られ続け、その大部分がソ連当局の手にわたっていた(XIX頁)ことからもお分かりいただけることでしょう。
 情報管理が甘い当時の日本の官僚は重光だけではなかったでしょうし、現在の日本の官僚だって甘いわけですが、重光は大甘だったという誹りを受けても致し方ありますまい。 吉田茂のダメさかげんは、私がかねてより口を酸っぱくして唱えてきたところですが、彼と同じ外務省育ちの重光葵もまた、吉田とは違った意味でダメ人間であった、ということになりそうです。

 それはそれとして、重光の世界観を知れば知るほど、彼が、いかに、当時の日本の指導層の大部分同様、また、日本国民の過半同様、ロシア/共産主義の脅威に対処することを日本の安全保障上の最大の課題と考えていたかが分かります。
 私の言う横井小楠コンセンサスが、どれほど当時の日本人の物の考え方を規定していたか、ということでしょう。

(完)