太田述正コラム#4348(2010.10.31)
<重光葵の世界観(その1)>(2011.2.18公開)

1 始めに

 「XXXX」さんから提供を受けた戦前の日本の歴史に係る各種資料のうち、「重光葵<(1887〜1957年)>の『外交意見書集』第1巻は、その細かい字で363頁という分厚さに恐れをなしています。」と以前(コラム#4302で)記したところですが、とりあえず、『外交意見書集』の編者による解説をご紹介するとともに、この解説に対する私のコメントをご披露することにしました。

2 重光葵の人と思想

 「重光葵は、1887年・・・に生まれた。・・・外務省に入省し・・・、第一次世界大戦をドイツ・イギリスで経験し、アメリカ西海岸で総領事を務めた後、パリ講和会議の随員となった。・・・1925年・・・北京大使館勤務を開始する。1931年・・・には特命全権駐華公使とな<る>・・・<同年>4月29日・・・朝鮮独立運動の志士が放った爆弾が重光を襲<い、彼は>・・・右足切断の大手術を受け<た。>・・・1933年に・・・外務次官、そして1936年11月から41年7月まで、駐ソ・駐英大使を歴任<した。>・・・<(注1)」(XV〜XVI頁)

 (注1)その後は、小磯内閣と東條内閣で外務大臣(1943年4月20日〜45年4月7日)、東久邇宮内閣で大東亜大臣(1945年8月17日〜8月25日)・外務大臣(1945年8月17日〜9月15日)、極東裁判でA級戦犯として起訴され禁固7年の判決を受ける(4年7ヶ月服役の後仮釈放)、衆議院議員(1952年10月2日〜57年1月26日)、鳩山内閣外務大臣(1954年12月10日〜56年12月23日)、という経歴だ。なお、彼は、1945年9月2日に戦艦ミズーリ号上で日本の全権として日本の降伏文書に署名している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E5%85%89%E8%91%B5

 このような戦前のみならず、戦後においても活躍したという経歴において、彼を、吉田茂(1878〜1967年)と並ぶ、当時の日本の外務官僚のうち、まともな方の代表格とみなしてもあながち間違いではない、と言えるのではないでしょうか。
 (吉田と違って重光はA級戦犯になっているが、これはGHQの意向に反してソ連がごり押しをしたのに米民主党政権が屈したものであり、重光の判決はA級戦犯中最も軽いものだった。(ウィキペディア上掲))
 このほか、重光は、彼に比べてやや世代が若いが、商工省(通産省)の岸信介(1896〜87年)や(戦後の活躍ぶりがいささか見劣りするが)大蔵省(財務省)の賀屋興宣(1889〜1977年)と比較対照されるべき存在でもあると言えそうです。

 そして、同じ外務官僚の吉田と違って、重光は、浩瀚な、いわば同時代史と言ってもよいところの、大量の外交意見書を残しており、当時のかかる外務官僚の世界観を詳細に知ることができます。
 それでは、この外交意見書が重光の『外交意見書集』(現代史料出版 2010年1月)として出版されるににあたって、その監修をした武田知己による、同書冒頭の解説のさわりの紹介を続けましょう。

 「「親英米派」と「枢軸派」(反英米派・親独派)などと分類し、前者を評価し、後者を批判する見慣れた分類方法・・・は、当時の日本外交の大状況を見事に表している。しかし、このような図式の中での重光の位置づけは、なかなか困難である。」(XXX頁)
 
 武田はこう解説していますが、私は、それが「当時の日本外交の大状況を見事に表してい」ないどころか、当時の日本において、ロシア/共産主義との対峙という(外交を含む)国家戦略上の広汎なコンセンサスが存在していた以上、そんな戦術上の対立図式など取るに足らない話である、と考えています。
 そうであるとすれば、重光のみならず、当時の日本の指導層の誰であれ、その者を「親英米派」と「枢軸派」のどちらかに位置づけることなど不可能に近いし、意味もない、ということになるわけです。

 「30年代の重光は、既に崩壊の過程にあったいわゆる「ワシントン体制」に対して極めて批判的である。・・・第一にこれが「事実よりも理想に走ったもの」であって「日本に於いても国内に此の理想政策を受け入れる丈けの用意が精神的にも又政策的にも出来て居なかった」こと、第二に中国が「「ボルセヴィキー」との提携に依って余りに極端に走つて」、「日本の東亜に於ける地位を排撃する事態に迄展開した」こと、第三に「大戦中に大陸に進出した日本の勢力に掣肘を加へ様というのが英米等第三国の重要な目的」であり、「東亜の主人公の地位を日本にも又は支那にも譲ろうとしたのではな」かったことである<と>・・・。」(XXXVIII頁)

 この第二、第三はよいのですが、第一については、米国による日英離間政策の結果として生まれた「ワシントン体制」を重光自身が「理想」視し過ぎていて、私としては、著しく違和感があります。
 重光は、彼が外交官になった頃には、米国が既に潜在的な世界覇権国であったというのに、しかも米国勤務経験もあるというのに、その米国が(私の言うところの)人種主義的帝国主義国であるという認識を抱いていなかったのではないか、という感じを受けます。

(続く)