太田述正コラム#4316(2010.10.15)
<クリミア戦争(その1)>(2011.2.7公開)

1 始めに

 日本にペリーが来航した頃、遠く離れた場所でクリミア戦争が起こりました。
 開国した日本は、やがて、クリミア戦争の一方の主役であった英国と手を携えて、同戦争のもう一方の主役であったロシアと対峙していくことになります。
 このことの必然性を理解していただくため、このたびオーランド・フィゲス(Orlando Figes)が上梓した、'Crimea: The Last Crusade' の書評類をもとに、クリミア戦争とは何だったのかをご説明したいと思います。

A:http://www.ft.com/cms/s/2/a962b144-d263-11df-9e88-00144feabdc0.html
(10月9日アクセス)
B:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/8034591/Crimea-the-Last-Crusade-by-Orlando-Figes-review.html
(10月13日アクセス。以下同じ)
C:http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/crimea-the-last-crusade-by-orlando-figes-2100678.html
D:http://www.guardian.co.uk/books/2010/oct/10/crimea-last-crusade-figes-review
E:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/8032708/Crimea-The-Last-Crusade-by-Orlando-Figes-review.html
F:http://www.heraldscotland.com/arts-ents/non-fiction-reviews/orlando-figes-crimea-the-last-crusade-allen-lane-1.1060855
G:http://www.timeshighereducation.co.uk/story.asp?storycode=413733

 なお、コラム#4303で(A)を既に部分的に用いて、上記「必然性」を示唆したところです。
 ちなみに、フィゲス(1959年〜)は、ロンドン大学バークベック(Berkbeck)校の歴史学教授であり、これまでの著作に対し、数々の賞が授与されているところ、今年初めに、アマゾンに仮名で書評を投稿し、他人の著作をけなし、自分の著作を褒めたことが露見し一騒動起こした人物です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Orlando_Figes 及び(D)

2 クリミア戦争

 (1)発端

 「発端は、実は、1846年の復活祭季節(Eastertide)にエルサレムの聖墓教会(Church of the Holy Sepulchre)での喧嘩だった。
 カトリックとギリシャ正教の僧侶達が祭壇布(altar-cloth)を祭壇にかける権利を持っているのはどちらかを巡ってモメ始めた。
 殴り合いがやがて燭台での頭の叩き合いになった。
 その他の僧侶や巡礼達がナイフや拳銃を携えて加勢し、終わってみると40人が死んで地面に横たわっていた。・・・」(E)

 「・・・<そもそも、>ギリシャ正教会とローマ・カトリック教会の僧侶達の間で、パレスティナのキリスト生誕教会(Church of the Nativity)と聖墓教会の所有権を巡って争いがあった。
 ロシアは前者を支援し、フランスは後者を支援しており、この議論は「教会管理人(church warden)の争い」として一旦は収まったもの、オスマントルコのスルタンのアブデルメジド(Abd-el-Mejid</Abdulmecid。1823〜61年。1839〜61:31代スルタン。タンジマート(改革)を本格開始
http://en.wikipedia.org/wiki/Abd%C3%BClmecid_I (太田)
>)がフランスに有利な裁定を下し、<ロシアの>ニコライ(Nicholas)1世<(1796〜1855年
http://en.wikipedia.org/wiki/Nicholas_I_of_Russia (太田)
)>が外交使節団をコンスタンティノープル(イスタンブール)に派遣したことで、エスカレートした。・・・」(F)

 「・・・1852年末、このスルタンは、フランスの圧力に屈し、ベスレヘムのカトリックの僧侶達に生誕教会の鍵を保管することを許可した。
 ロシア皇帝の対応は、128,000人の兵力を動員することだった。
 彼は、非常に熱心な提督をイスタンブールに送り、ロシアの諸要求を提示した。・・・」(E)

 「・・・するとフランスは艦隊を派遣し、これによってトルコのロシアに対する決意が固まった。・・・」(E)

 「・・・<こうして、ロシアの企て>は失敗したが、結果、・・・数ヶ月後の1853年6月に(E)・・・ロシアはその陸軍をオスマントルコの公国であったモルダヴィア(Moldavia)とワラキア(Wallachia)に出兵した。
 こうして緊張が高まった時、外交的解決方法を見つける努力が更になされるのと平行して英国<も>海軍を黒海に送った。
 するとロシアは、この問題を力で決着をつけるべくオスマントルコのシノプ(Sinope</Sinop。アナトリア半島北部中央
http://web.deu.edu.tr/paphlagonia/text_01.html (太田)
>)のトルコ艦隊を破壊(注1)し、これが戦争勃発を決定的なものにした。

 (注1)1853年11月30日に行われた、ロシア艦隊とシノプ港内にいたオスマントルコ哨戒艦隊との間の帆船時代最後の海戦。ロシア側は戦列艦(コラム#4306)を中心とする艦隊であったのに対し、トルコ側は、駐トルコ英国大使の示唆に基づき、戦列艦をシノプに派遣しなかったためフリゲート艦以下のみ。結果、ロシア側は被害を受けたのは2艦だけで死傷者300人未満であったのに対し、トルコ側は、脱出に成功した1艦を除き、全滅し、地上施設も壊滅し、約3,000人の死傷者を出し、司令官のオスマン・パシャ(Osman Pasha。1832〜1900年)は捕虜になった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Sinop 
http://en.wikipedia.org/wiki/Osman_Pasha (太田)

 ロシアが二つの公国からの撤兵を拒否するや、英国とフランスはロシアに宣戦布告し、この地域に<陸軍>派遣部隊を送る準備を行った。・・・」
 (以上、特に断っていない限りFによる。)

 「・・・<そして、>2年半にわたる・・全部ではないが、その大部分はクリミア半島における・・厳しい戦いの火ぶたが切って落とされた。・・・」(E)

(続く)