太田述正コラム#4450(2010.12.21)
<東と西(その3)>(2011.1.21公開)

 (4)東の優位

 「・・・1,000年間にわたる支那の優位は、<漢の>政治的崩壊以降の、<隋・唐・宋・元・明という>交易と知的開放性の期間が続いた結果生じた。
 ローマ帝国と漢帝国は、どちらも、気候と降雨量が下降していたために倒れた。
 3世紀に、ローマと支那双方において、諸都市は縮小し、識字率は減少し、軍事力は腐食した。
 しかし、東方では、移民が肥沃な地域に移動し、そこで新しい米作方法によって生活水準が上がり、政治的前進のための新しい可能性が生まれた。
 実質的な最後のローマ皇帝であったユスティニアヌス(Justinian<483〜565年。皇帝527〜565年>)<(コラム#545、1405、2384)>が失敗したのは、彼にはこのような生産性の高い水田がなかったからだ。
 この時点で、支那が成長したのは、支那が外国の様々な影響に対して開かれており、それらの影響を新しい綜合へと混淆することができたからだ。
 11世紀には支那ルネッサンスがあった<(注1)>が、それは、15世紀の欧州における<ルネッサンスの>発展に先行するとともに、比肩しうるものだった。

 (注1)慶暦の治(北宋第4代皇帝の仁宗の慶暦年間の治世。1022〜1063年(生年は1010年))のことか。「強い経済力を元に文化の華が開き、印刷術による書物の普及・水墨画の隆盛・新儒教の誕生など様々な文化的新機軸が生まれた。また経済の発展と共に一般民衆の経済力も向上し、首都開封では夜になっても活気は衰えず、街中では自由に市を開く事が出来、道端では講談や芸人が市民の耳目を楽しませていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%AE%8B
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%AE%97_(%E5%AE%8B) (太田)

 <しかし、>支那の統治者達が自分達の優位に確信を持ちすぎ、もはや外国の野蛮人達に目を向ける必要がないと思うようになった時に、その衰亡は運命付けられた。・・・」(A)

 「・・・マルコ・ポーロ(Marco Polo<。1254?〜1324年
http://en.wikipedia.org/wiki/Marco_Polo (太田)
>)は、支那の商業が「かくも途方もない規模であることから、それを聞いても自分自身の目で確かめない限りは信じられない」と描写した。
 何だか聞いたことがあるぞだって?
 そう。我々よりもずっと前に、支那人達は、羅針盤、紙、火砲、そして海上における優位を持っていたのだ。
 1405年から1433年にかけて、300隻からなる<明の鄭和の>艦隊が、遠く離れた東アフリカまで航海した。
 それなのに、どうして支那人のアメリカ大陸征服者(conquistador)が出なかったのか?
 ここでもやっぱり地理なのだ。
 <支那からは、>アメリカ大陸は、欧州からの2倍も遠い。
 しかも、<支那の明では、>1424年に長距離航海が禁じられてしまった。
 その結果、欧州人の方が先にアメリカ大陸に到達し、大西洋交易<が始まった>おかげで、欧州は再び支那を追い越したのだ。
 <そのことがはっきりしたのが、1840〜1842年のアヘン戦争において、>1842年に、ワットのエンジンを動力源とする、全部鉄でできた蒸気船のネメシス号(Nemesis)<(注2)>が<支那の清の>広州(Guangzhou)にやって来て「敵対する者をすべて木っ端みじんにした<ことだ。>」。・・・」(C)

 (注2)HEIC Nemesis=Honourable East India Company ship Nemesis。1939年に就役した英国の最初の外洋鋼鉄製戦闘艦で東インド会社所属。
http://en.wikipedia.org/wiki/HEIC_Nemesis (太田)

 「・・・6世紀の中頃、東が突然、初めてスパートをかけた時、欧州はいわゆる暗黒時代に入ったのに対し、<東では>隋王朝が支那を統一し、東がそれ以降の1,000年間<西に対して>リードを保つ基盤を築いた。  
 <その後、>アメリカ大陸まで航海することができる船を造り始めたこと(大西洋は太平洋よりもずっと小さかった)と、恒常的な戦争が軍事技術の発展に資したことを理由のうちの幾ばくかとして、西がついには<東に>追いついたけれど、18世紀半ばに至っても、東と西との間にそれほど大きな違いはなかった。・・・」(E)

 (5)再び西の優位

 「・・・500年前に、それまで横切ることが出来なかった大洋を横切ることができる新しい種類の船が出現した時、<西のうちの>大西洋に突き出ている<地域、すなわち欧州>が<東に対して>突然高度に有利になった。
 その船とは、エジプトやイラクの船ではなく、支那、日本、そして南北アメリカに到着することとなる、ポルトガル、スペイン、フランス、そしてイギリスの船だった。
 モリスがそう見たように、ギリシャ哲学、ローマ法、ユダヤ・キリスト教的一神教ないしは欧州の啓蒙主義、が西の全球的権力への上昇を可能にしたのではなく、生物学と社会学の普遍的法則と相互に作用し合ったところの場所(location)という物理的(brute)事実がそれを可能にしたのだ。・・・」(B)

→「ギリシャ哲学、ローマ法、ユダヤ・キリスト教的一神教ないしは欧州の啓蒙主義」をまとめて矮小化しているところは、イギリス人の欧州的なるものへの蔑視という衣の下の鎧があらわれたって感じですね。(太田)

 「・・・1776年に、ジェームス・ワット(James Watt<。1736〜1819年>)<(コラム#4062以下)>は、自分が発明した蒸気エンジンを「どちらかと言えば成功だった」と描写した。
 これは、・・・<この本の著者の>イアン・モリスに言わせれば、「歴史全てを通じての2番目に大きな過小表現」なのだ。
 ワットによって始められた(launched)産業革命は、西が、空前の形で全球に覇権を唱えることを可能にした。・・・」(C)

→産業革命やワットの著しい過大評価です(コラム#1489、1501、1515、1570、1586、1999、3792)。(太田)

 「・・・産業革命は、蒸気エンジン、電気、そして化石燃料の内燃を通じてエネルギーをつかまえ馴致する方法を永久に変えたことによって、発展の天井を粉砕した。
 そして、そのすべてが西で最初に炸裂した。
 1700年代に、北西大西洋は、・・・西の核たる心臓部から遠く離れた寒冷な後進地域だったが、後進的であることには有利な点もあった。
 最も孤立していた人々であるオランダ人と英国人は、現実には、海洋を通じての征服と交易に最も適した位置にあったので、わずか数年にして、急速に最も富んだ2国となった。・・・」(F)
 「・・・西一般、とりわけイギリスは、極めて単純な形で統治されていた。
 同じ頃、東一般、とりわけ支那は、内発的ないし外発的叛乱との戦いを通じて、より深く、塹壕に閉じこもった国家構造の中に自らを閉じ込めて行った。
 西が外に向けて航海し始めた時に、東は内向きになって行ったのだ。
 蒸気エンジンによって燃料が与えられ、新世界の資源によって養われたところの、新しい全球的市場(marketplace)<を享受した西>によって、東が凌駕されたことに気付いた時には既に遅すぎたのだ。・・・」(F)

→モリス、ついに、衣を脱ぎ捨て、西とは実はイギリス(アングロサクソン)なり!と叫んで鎧姿で大立ち回りを始めたって感じですね。(太田)

(続く)