太田述正コラム#4270(2010.9.22)
<ピゴット少将かく語りき(その1)>(2011.1.9公開)

1 始めに

 XXXXさん提供のピゴット(Francis Stewart Gilderoy Piggott。1936〜39年:駐日陸軍武官)少将の『断たれたきずな(Broken Thread)』(旧版) 時事新報社 1951年(原著1949年)の抜き刷りから、興味を覚えた箇所をご紹介しましょう。(旧字は現代表記に改めた。)

2 ピゴット少将かく語りき

 「第一次大戦において、日英同盟条約にたいするわれわれの信頼は、正当だったことが実証された。条約破棄が文字通り十指を以って数えられる時代において、日本がその義務を忠実に履行した1914-18年(大正3-7年)当時を回顧するのは愉快である。1914年(大正3年)、日本はわれわれの敵に宣戦を布告し、青島のドイツ海軍根拠地を占領し、イギリスの軍輸送船隊を護衛し、1917年(大正6年)、地中海の対潜水艦作戦に協力するため駆逐艦を派遣し、そして1918年(大正7年)には、シベリアに陸軍の大部隊を派遣した。・・・

→ピゴットならぬハンキー(後出)が、シベリア出兵についても、(もともと対ロシア同盟という色彩の強かった)日英同盟の発動ととらえているのは、考えて見れば当たり前ですが、余り誰も指摘していない点ですね。(太田)

 アメリカは日英同盟の破棄を事実上、・・・ワシントン海軍軍縮会議・・・の前提条件としていたが、これは日英両国の主席代表たちには頗る不愉快なことだった・・・。
 日英同盟破棄の結果生まれた四国条約について、・・・日本代表団の事務総長<の>・・・佐分利氏は悲しそうに、しかし、予言者的にこう言った--「他の諸国が割りこんで来るだろう。ブドウ酒は水で薄められれば薄められるほど効能が少くなる。」ちょうどその通りのことが起った。そして日英両国は次第に離れて行った。」モーリス・ハンキー卿による序文)(5〜6頁)

→米国は、日英同盟を破棄させた上で、日英両帝国を個別撃破し、米国を名実ともの世界覇権国にしようと考え、第二次世界大戦への参戦を通じてこの野望を達成した、ということになるわけです。(太田)

 「日本語を習い、日本陸軍の生活をともにしたイギリス及びインドの陸軍士官の数は(150名以上)中国を除けば他のどの国の数よりも多かった。」(10頁)

→これは、私にとって初耳ですが、語学将校と称し、日本の連隊等の隊付となったようであるところ、日本の陸軍や地域社会において知人・友人網を形成するのが目的であった思われ、さすが英国と感心しますね。(太田)

 「H・W・エルソンの『アメリカ合衆国の歴史』(History of the United States of America)の中に・・・

 しかし、<ワシントン>海軍軍縮条約調印前に、もう一つの、きわめて重要な問題が処理されねばならなかった…約20年間、日英両国は同盟関係にあったから、アメリカとしては、この同盟が破棄される前に、海軍兵力を縮小したとしたら、馬鹿げたことだったろう。なぜなら、この両国はいつ何時、太平洋で共同してアメリカに立ち向ったかも知れないからだ。
<とある。>

 この最後の部分は、到底起り得ないこととして批判されてもいいだろう。なぜなら、1911年(明治44年)に改訂された日英同盟条約は、そのような可能性を排除するように作成されたからである。それにもかかわらず、アメリカに満足の行くような解決ができるまで、会議は少しも進展できないように見えた。」(191〜192頁)

 「<この会議での>イギリスの目的は、意見の相違を調和させ、協調的な協力をもたらすことだったが、いちばん大きな困難は、イギリスは、アメリカの友であり、日本の同盟国であるのに、日米両国間の感情が友好の逆だったことである。日露戦争当時「イギリスは同盟国で、アメリカは最良の友」というスローガンが東京で流行したとき以来、すでに多くの歳月が流れ、いまや、「アメリカは仮想敵国なり」という方がもっと正確なくらいだった。」(199頁)

→今にして思えば、英国の認識は甘かったと言わざるを得ません。米国は日本を第二の仮想敵国、英国を第一の仮想敵国としていたからです。日本は前者を察知したのに、英国は後者を察知できなかったというわけです。英国は、これを察知しなければならなかったし、米国の日英同盟破棄要求は拒絶し通さなければならなかったのです。(太田)

 「<この会議の際、>バルフォア氏は、1902年(明治35年)最初の日英同盟が交渉されたとき、台閣に列していたし、1905年(明治38年)政府の首班として、その強化の当事者だったので、これを終焉させる役を負うことになった運命の皮肉を悲しんだ。「まるで、わが児を殺すような気持ちだ」と、かれは述懐した。・・・
 わたくしはバルフォア氏に、自分の考えでは、日本は同盟を永久の婚姻とみなしていたので、戦後こんなに早く、それを正当化する日本側の不信行為がないのに同盟を解消することは--事実これは離婚である--日本にたいし、とりかえしのつかない大きな侮辱を与えることになろうといった。のみならず、これは、日本人が最悪の罪とする忘恩と解されるだろう<と伝えた>。要するに、わたくしは、終極においてどんな影響があるのかを非常に心配し<てい>た<わけだ>。」(201〜202頁)

→日本の友人達の言としてわれわれは心打たれますが、彼等が、日本のことの方をどちらかと言うと心配している点に、英国の傲慢さを感じると同時に、自分達自身の今後のことをもっと心配してしかるべきだったのです。(太田)

 「会議は散会し<たが、>・・・ある日本の代表は、洞察力と同情とをもって、問題を簡潔につぎの言葉で批評した。「われわれは、旧友の葬式に列席したような気がした。しかし、こういうことに附き物の悲哀のあとに、弔問者たちは、死んだ人の多くの徳を想起し、そして、かれの想い出をつねに新たにしようと努力することによって、「慰められるかもしれない。」<と。>」(205頁)

→日英同盟の葬儀が、日英両帝国の葬儀を予告するものであったことまでは、さすがにこの日本人も予想していなかったのではないでしょうか。(太田)

 「チャットフィールド卿は、当時に言及して、第一次大戦後、「日本は、われわれの信頼した同盟国であり友人だった」と書いている(『戦後の国防(Defence After the War)1頁)。また同卿は、同盟の廃棄によって「それが、いかに政治的に賢明だったとはいえ、われわれは、英帝国の戦略的地域を最も危険な程度までに弱化した。われわれは、立派な友を強大な仮想帝国と化した…」と書いている)『それは再び起るかも知れない』88頁)。・・・

→翻訳のせいなのかもしれませんが、これでどうして「政治的に賢明だった」ことになるのでしょうか。(太田)

 14年間にわたって、日本政府の顧問をしていたアメリカ人、フレデリック・ムーアも、『日本の指導者と共に』(With Japan's Leaders)と題する著書の34頁と40頁で、率直に次のような意見を述べている。

 イギリスに強要して、日本との同盟を廃棄させたことは、アメリカの外交政策の過ちだった、と私は痛感した。日英同盟はアメリカを脅威するはずがなかった。脅威となったという非難は真実でなかった、とわたくしは思った…日英同盟の廃棄は、日本人に衝撃を与えた…これが、日本を独自の行動に向かわせたはじめだった・・・もし同盟の継続が許されたなら、日本において文官および海軍の影響力が十分陸軍をおさえて、中国へ向わせることを阻止できただろうとさえ、わたくしは思っている。さらに、このような影響力によって、日本が枢軸と結びつくことを十分阻止し得ただろう、とわたくしは信じている。」(206〜207頁)

→知日派の英国人達と同じことを言っているようで、この知日派の米国人は、全く違った考え・・謬見と言ってよい・・を抱いていると指摘せざるを得ません。当時の日本の文官・海軍と陸軍との間で日本の戦略面で見解の相違があったわけではありませんし、むしろ、ソ連の脅威に対抗するために中国へ向かう日本の戦略を、引き続き、英国とともに米国は支援すべきだったからです。戦後形成された日本の戦前史に係る世界的通説・・・謬説と言ってよい・・の萌芽をこんなところにおいても見出すことができます。(太田)

 「サー・チャールズ・エリオットは、1926年(昭和元年)のはじめ<駐日英国>大使をやめた<が、>・・・かれの死後発行された『日本の仏教』(Japanese Buddhism)には、サー・ハロルド・パーレットの書いた序文がのっているが、次の抜粋はとくに適切なるものである。

 ・・・少くとも一つの自治領における一般的感情、アメリカの反感、ジュネーヴの国際連盟を通じて働いていた新しい国際主義など・・・の勢力が・・・ついに・・・勝ち、1921年(大正10年)の冬、ワシントンにおいて、同盟は廃棄された。・・・」(280〜281頁)

→米国は、第一次世界大戦後、国際連盟をつくり・・結局自らは加盟しなかったが・・、その一方で独裁体制に対抗する自由民主主義同盟であった日英同盟を廃棄させたことがもたらした惨劇の「反省」に立って、第二次世界大戦後、国際連盟を改組したと言ってよい国際連合をつくるも、それと同時に、自由民主主義同盟をNATOや日米安保を始め、世界で設けることになります。
 このように考えれば、日英同盟は、NATO等の前駆者であったと言えるのではないでしょうか。
 とまれ、日英同盟を廃棄させた米国は、厳しく指弾されてしかるべきです。(太田)

 「<大正天皇が崩御した時の、英国>上院で<の>・・・追悼・・動議が、インド事務相バーケンヘッド卿によって提出され<た。その時の彼の演説は以下の通り。>・・・

 ・・・<第一次>世界大戦が勃発したとき、わがイギリスは日本の同盟国だったが、忠実な同盟の義務にかんする日本人の観念は他の追随を許さなかった。戦争中、われわれが依頼したことで、日本がしてくれなかったことはなかった。日本がやったことで、立派になしとげなかったことはなかった。・・・わが海軍力をわが近海に集結しておくことが必要だったが、これは同時に、われわれが保護することがまったく困難な水域に敵の巡洋艦が存在することから生ずるきわめて大きな脅威を、全世界に跨がるわが通商に与えた。この時に当って、われわれの大海軍同盟国は、われわれを見捨てなかった。日本は、忠実さに劣らない有能さをもって任務を遂行した。開戦直後の6ヶ月間に、インド部隊が戦争の中央舞台へ運ばれたが、われわがこの間、平静に物を考えることのできたのは、日本から受けた援助によるところが少なくなかった。」(294〜296頁)

→日英同盟は、事実上、ユーラシア大陸を2分し、東における脅威には日本が対処し、西における脅威には英国が対処する、という形で運用されるようになっていた、ということです。
 そんな日英同盟の廃棄を受け容れてしまった英国は、日本を脅威に転化してしまったということであり、同盟廃棄の時点で既に帝国瓦解の秒読みが始まったのであり、その秒読みを飛躍的に速めたのが、足下のドイツの再度の脅威化でした。
 英国としては、大英帝国の瓦解を少しでも先延ばししつつ、このドイツの脅威に対抗しようとすれば、日英同盟を事実上復活させる以外に方法はなかったのに、英国はそれをやらなかったばかりか、チャーチルに至っては、本来、(日本とともに対処すべき)最大の脅威であったはずのソ連を事実上の同盟国に、そして、もともと大英帝国を瓦解させる機会をうかがっていた米国を同盟国にしました。
 その結果、大英帝国は過早に瓦解するに至ったわけです。(太田)

(続く)