太田述正コラム#4226(2010.8.31)
<どうしてイスラム教は堕落したのか(その4)>(2011.1.3公開)

 (5)愛の神か超越的な神か

 「・・・アラーが単一の(monad)神(deity)であるとすれば、愛は彼の恒久的本性(nature)の一部たりえないことは覚えておいて損はない。
 更に言えば、愛は真の道徳性の核心であり動機だ。
 イスラム教の神は、それが彼の本性の恒久的属性でないがゆえに、愛を説明することはできない。
 <それに対し、>聖書の神は愛<の神>なのだ。・・・」(C)

 「・・・アル=ガザーリ・・・は神聖なる<(=神の)>愛という観念を忌み嫌った。
 「愛がある時、愛する者には不完結性の感覚・・完全な自己実現のために愛する者が必要であるという認識・・があるはずだ」と彼は記した。
 しかし、アラーは完全で完結しているので、かかる愛の観念はナンセンスだ。
 「神が手を差しのばすことはない…彼には変化はなく、発展もないし、彼自身の欠缺の補充もない」と。
 困ったことに、この場合、アル=ガザーリは、単にアリストテレスの神が不動の他動者であるという定義を繰り返しているだけであることだ。・・・
 客観的に言って、「イスラム教徒はキリスト教徒より非合理的か」という問いに対する答えは断固「否」だ。
 天と地の造った者が彼の<造った>生き物たちのことを慮り彼等とともに苦しむというユダヤ人の観念は、ギリシャ人にとっては白痴的に見えたし今日の哲学者の大多数にとっても依然白痴的に見える。・・・
 全てにおいて超絶的な(all-transcendent)アラーは、人間風情との間で聖約(covnant)を結ぶために身をやつすなどということはしない。・・・」(A)

→神概念に関しては、アラーはエホバよりもはるかに合理的(理性的)であり、だからこそ、イスラム教はユダヤ教やキリスト教に比べて野蛮である、という皮肉な結果にあいなったわけです。(太田)

 (6)愛の神の恐ろしさ

 「・・・13世紀の十字軍は、アクィナスの熱烈なる祝福の下、アルビジャン派の異端者が立てこもっていた南フランスの地域で100万人にも及ぶ人々を殺害した。
 <また、>キリスト教徒たる司法権を持つ行政長官達は、古の異教徒の自然宗教の達人の容疑者たる50,000人から100,000人の魔女を処刑した。
 <もっとも、>ヘブライの聖書を信じるならば、古のイスラエル<の民>は、カナーンの地に彼等が遭遇した異教徒の人々のいくつかを絶滅させよとの正確なる諸指示をたずさえて入った<というのであるから、カトリシズムの恐ろしさはユダヤ教(旧約聖書)ゆずりのものであるということになろう>。・・・」(A)

→ギリシャの合理論と邂逅したイスラム教から合理論を継受したキリスト教は合理論で武装し、カトリシズム(カトリック神学)という合理論(演繹論)体系が構築されるに至りわけですが、私見によれば、だからこそ、カトリシズムはこのような恐ろしい行為を繰り返すことになったのです。
 入れ替わりに合理論を放擲したイスラム教においては、このような行為は比較的少ないことを思い起こして下さい。(太田)

 (7)イスラム教が生まれた社会

 <イスラム教は、以下のような社会で生まれたものだ。>
 <現在でも、>イラク人の5分の3(とサウディアラビア人の5分の2)の結婚は従兄弟と従姉妹の間のものだ。
 というのも、結婚制度の目的は氏族の政治的一体性(integrity)を維持するところにあるからだ。・・・」(A)

 「・・・<ここから、>イスラム教の道徳律は、言葉による犯罪に対する死刑による処罰と女性の抑圧の倫理システム<となった>。・・・」(C)

 (8)総括

 「・・・20世紀の偉大なイスラム教学者の故ファズラー・ラーマン(Fazlur Rahman)は、「哲学を自ら奪った人々は必然的に新しい諸観念に関し飢餓に自らを晒すことにある。
 実際それは知的自殺を犯すことなのだ」と述べた。・・・」(C)

 「レイリーは、「信仰から理性を離婚させること(欧米の現在の危機)も理性から信仰を離婚させること(イスラム教の危機)も、どちらも破滅へと導く、と結論づける。…・・・」(C)

→この点に関する限り、レイリーは間違っていると私は思います。
 合理論で武装した宗教ほど恐ろしいものはないからです。
 信仰と理性とは、そもそも「結婚」などさせてはならないのです。(太田)

 「・・・レーゲンスブルグ講話<(前出)>において、ベネディクト16世は、似たようなことを言った。
 彼は非ヘレニズム化、すなわち、ギリシャ人の贈り物たる理性を喪失したことが、欧米の主要な諸問題の1つであると語った。
 それに対して比較的に知られていないのがイスラム教を襲った非ヘレニズム化、すなわち、その理性の誹謗であり理性との離婚だ。
 (この法王は、このことをほんのちょっとだけほのめかしたけれど、それが大きな議論を引き起こした。)・・・」(D)

→同じ理由で、現法王も間違っていると私は言わざるをえません。(太田)

 「・・・イスラム教の非ヘレニズム化が比較的知られていないのは、それが余りにも徹底的であり効果的であったために、それに先だって、とりわけ9世紀と10世紀の間にヘレニズム化のプロセスがあったっことに気づいている者がほとんどいないからだ。
 それはイスラム教と世界にとって枢軸的な時期だった。
 その時、この時期の終わりにかけて、イスラム世界悪い方向への決定的転換がなされたのだ。・・・」(D)

→私見によれば、理性と「離婚」したこと自体は良いことであったけれど、それにより、イスラム教は先祖返りし、野蛮に戻ったというだけのことなのです。(太田)

 「・・・古のグノーシス派的(Gnostic)考え方と現代の(例えばマルキシズムといった)「諸イズム」との間のつながり<(コラム#3678)>を図示した政治哲学者のエリック・ヴォーゲリン(Eric Voegelin)及びそれと類似の分析を行った独創的学者達(crafters)、或いは、ソ連を創造し運営したところの、血腥い考え方を抱き大量殺害を行った知識人達についての恐るべき諸研究の形で、かかる殺人的「諸イズム」のもたらしたものの画期的暴露を行ったロバート・コンケスト(Robert Conquest)とリチャード・パイプス(Richard Pipes )、と同様の注意喚起をレイリーは行う。・・・」(C)

→ここは、簡単過ぎなので、政治的宗教シリーズ(コラム#3676以下)を参照してください。
 要するにプロト欧州文明が生み出したカトリシズムの変形が欧州文明が生み出した民主主義独裁(政治的宗教)たる諸イズムである、ということを押さえておいてください。(太田)

 「・・・ナチズムとマルクスレーニン主義においてそうであったように、力の優越制が一旦措定(posit)されると、テロリズムが力へのその次の論理的段階となる。・・・」(D)
 「・・・<合理論的思惟そのものと言うべき数学の世界においては、>痛ましいほど多くの偉大な数学者が自殺している。
 アラン・テューリング(Alan Turing)、ポール・エーレンフェスト(Paul Ehrenfest)、ルードヴィッヒ・ボルツマン(Ludwig Boltzmann)、そしてG・H・ハーディ(Hardy)がそうだ。・・・」(A)

→合理論の暴力性、すなわち、合理論が、外向けにはテロリズムを引き起こしがちであり、内向けには自殺を引き起こしがちである、ということが分かりますね。(太田)

3 終わりに

 このシリーズの表題である、「どうしてイスラム教は堕落したのか」という問いに対する答えは、イスラム教は堕落したのではなく、原初の野蛮な姿に戻っただけである、ということになります。
 イスラム世界が合理化し、近代化するためには、イスラム教を合理論と再邂逅させるのではなく、イスラム教を全面的に捨てるか、野蛮ではない(近代化と抵触しない)部分だけを選択する形でイスラム教の縮小的改変を行うしかない、と私は考えています。
 欧米社会に住んでいるイスラム教徒の一部や、インドやインドネシアのイスラム教徒の多くは、かねてより、事実上後者を実践しているところです(典拠省略)。

(完)