太田述正コラム#4224(2010.8.30)
<どうしてイスラム教は堕落したのか(その4)>(2011.1.2公開))

→大事な点なので、重複を厭わず、もう一度説明しましょう。(太田)

 「・・・イスラム教の主流は、ギリシャ由来の哲学を、アブ・ハミッド(Abu Hamid)・アル=ガザーリが神聖なる気まぐれ(divine caprice)の神学を樹立したところの、12世紀への変わり目において、拒絶した。
 物事に対するイスラム教の規範的見方において、アル=ガザーリの総合(synthesis)によれば、アラーは、直接的にかつ自然法則による仲介なくして、そのいとやんごとなき、かつ理解不能な意思によって、あらゆる分子の動きを個人的かつ直接、指示するのだ。
 アル=ガザーリは、中間的諸原因(causes)、すなわち自然の諸法則を廃止し、宇宙の絶対的暴君の気まぐれに大きなものも小さなものも全ての出来事を委ねた。
 ヘレニズム的な理性的思考に代わって、イスラム教はコーランの字義通りの読みに依存することとした。
 ロバート・レイリーは、イスラム教がヘレニズム的な理性的思考を放棄したことを指摘し、それがイスラム文明の衰亡と急進イスラムの勃興をもたらしたと非難する。・・・
 11世紀のイスラム神学者のアハマド・イブン・サイド・イブン・ハズム(Ahmad Ibn Said Ibn Hazm)(注3)は、アラーは彼自身の言葉によってすら縛られることはなく、アラーがそれを望めば、我々は偶像崇拝者にならなければならないと教えた。

 (注3)994〜1064年。イベリア半島のコルドバ生まれで後ウマイヤ朝の末期のカリフの政治顧問(vizier)を2〜3回務めた後、思索生活に入る。ムウタジラ派ばかりかアシュアリー派もコーランの読み方が理性に依存しすぎであるとして批判した。
http://www.muslimphilosophy.com/hazm/ibnhazm.htm (太田)

 このイスラム思想における転換の重要性はどんなに強調しても強調しきれない。
 12世紀以降のイスラム世界における科学的業績の欠如は、イスラム思想において、何かが欠けていることをはっきりさせることを促している。・・・」(A)

 「・・・特定の神概念に起因する自然法則と因果関係の否定は、イスラム教徒の頭から科学の目的そのものを拭い去ってしまった。
 科学の努力は自然の諸法を発見することであるから、(神学的諸理由に基づくところの、)これらの法則が実際には存在しないという教えが、科学的営みの支障となることは明らかだ。・・・
 イスラム教の理性からの離婚は非合理的ふるまいへとも導いた。
 その証拠は、(イスラム世界で横行するほとんど気が触れているところの様々な陰謀論等、)遺憾ながら無数にある。
 それはまた、紛争を裁定する手段として力のみを尊重することにつながる。
 <人々の間で>「共に理性を働かせる」基盤が存在しないわけだ。
 この問題は、神が理性と正義ではなく純粋な意思であり力であるとするアシュアリー派の神の概念に神学的基盤を持つがゆえに手に負えないように見える。
 そして、仮に神が純粋意思であり力であれば、この神概念と、信条を普及させる際に暴力を是とすることと、の間に神学的障壁はないことになる。
 我々は、これがイスラム教が歴史上<世界に>普及してきた主たる方法であったことを知っている。・・・」(D)

→イスラム教のこの転換、というか原初への復古が、最初に記したこととこれもだぶりますが、現在のイスラム教の野蛮性へとつながっているのです。(太田)

 「・・・<エジプトのカイロの>アル=アズハル(Al-Azhar)<大学>の<付属>高校生徒のための『アル・イクナ(Al Iqna)』と呼ばれる教科書には、イスラム教徒を殺した者は死刑に処しうるけれど、イスラム教徒が非イスラム教徒を殺しても、より優れた者がより劣った者を殺すことを罰することはできないので、死刑の対象とはならない、と記されている(146頁)。
 この教科書には、血債(blood money。過失殺人の補償)の額は、<殺された者が>女性<の場合>は男性の半分で、キリスト教徒やユダヤ教徒<の場合>にはイスラム教徒<の場合>の3分の1であり、また、非イスラム教徒は(例えば仕事での上司といった)執事職(stewardship)に就いてイスラム教徒を使うことはできない、との記述もある(205頁)。
 かくして、国家によって監督されている何十万というアズハルの諸学校において、毎年、何十万人もの若きイスラム教徒に対し、コプト教徒に対する不寛容、侮蔑、そして憎しみのイデオロギーが吹き込まれ、エジプト社会に送り出されているのだ。・・・」(C)

(続く)