太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#4222(2010.8.29)
<どうしてイスラム教は堕落したのか(その3)>(2010.12.31公開)

 (4)合理論の放擲

 「・・・頭(mind)を閉ざす方法は根本的には2つある。
 1つは、どんなものであれ、それを知る能力を理性が持っていることを否定することだ。
 もう1つは、現実は不可知であると簡単に片付けてしまうことだ。
 つまり、理性は知ることができないとするか、<そもそも、>知りうる何物も存在しないとするかだ。
 どちらのアプローチも、現実をどうでもよいものにしてしまうに十分だ。
 イスラム教スンニ派においては、支配的なアシュアリー派(Ash’arite)神学において、この2つの要素がどちらも用いられた。
 その結果、人間の理性と現実、そして、極めて重要なことに、人間の理性と神との間に亀裂が生じた。
 <この>本は、創造主と彼のつくりだした生き物の頭との間の致命的断絶こそイスラム教スンニ派の極めて深甚なる災難(woes)の源であると主張する。
 この分岐は、コーランの中に所在するのではなく、初期のイスラム神学の中に所在し、そのことが究極的にイスラム教徒の頭の閉鎖へと導いたのだ。・・・」(D)

 「・・・アシュアリー派<という名称>は、その創建者であるアル=アシャーリ(al-Ash'ari<。874〜936年。ムウタジラ派からの転向者
http://en.wikipedia.org/wiki/Abu_al-Hasan_al-Ash'ari (太田)
>)から来ている・・・。
 彼等は、一つ一つ、ムウタジラ派が言ったことのすべてを否定した。
 彼等は、神は理性ではなく純粋な意思(will)であり力であると主張した。
 神は、欲するいかなることもできる。
 彼は、自分自身の言葉を含め、何物によっても抑制されたり制約されたりすることはない。
 人が理性を通して何が善で何が悪かを知ることはおよそ不可能であり、それらは啓示を通してのみ知りうる。
 アシュアリー派の偉大な神学者であるアル=ガザーリ(Al-Ghazali<。1058〜1111年。ペルシャ出身。皮肉なことにトマス・アクィナスやデカルトに大きな影響を及ぼした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Al-Ghazali (太田)
>)は、「理性から義務は出てこない。シャリアからだ」と言った。
 だから、理性は、何が善であるかとか正義であるかとかに関して、それを通して知り、あなたの人生を導くことはできない。
 道徳哲学は存在しない。・・・
 ここでの鍵は、神が殺人を禁じるのはそれが悪いからではなく、彼がそれを禁じるから悪いのだ<という点だ>。
 物事は…それ自体善でも悪でもなく、神の諸命令によってそうなっただけなので、神は明日考えを変えて儀式的殺人を命ずるかもしれないが、誰も神に反駁することはできない。
 従って、救済のためには、あなたは彼の諸命令を知らなければならないけれど、あなたはその知識に理性を通じて到達することはできない。
 神の諸法を解釈するにあたって、イスラム法学には「理性は立法者ではない」と述べられるところの原則がある。
 換言すれば、あなたに適用される唯一の諸法は神があなたに与えたものなのだ。
 理性は諸法を創造する権威も地位も有さない。それは、理性がそれら諸法を解釈する際にさえあてはまる。
 このような見解の政治的帰結を見て取ることは容易だ。
 仮に理性が立法者でないとすれば、どうして議会が立法できようか。
 議会に居場所などない。
 なぜならば、理性に居場所はないからだ。
 <それは、>理性なしでは、代表民主制を持つことはできないということ・・・だ。
 民主制をより力の強いものによる統治の道具(cover)としか見ることができなくなるということだ。
 それは、単に、権力・・この場合は多数の権力・・を強制力(force)でもって賦課するもう一つの営みに他ならない。
 つまり、アシュアリー派は、純粋な意思と力の優越を好み理性の優越を拒絶するのであり、だからこそ、イスラム世界では立憲民主制統治が自生的に発展しなかったのだ。・・・
 火が綿を燃やすのではない。神が燃やすのだ。
 重力が岩を落とすのではない。神がそれを直接やるのだ。
 自然法則のようなものは存在しない。・・・
 <法王>ベネディクト16世は、彼のレーゲンスブルグ(Regensburg<大学での>)講演<(コラム#1409、1411、3935)>でこの点をとりあげ、暴力による布教は非理性的であるだけでなく、理性なき神なる概念こそこの暴力に導くものであると指摘した。・・・

→現法王のこの講演が批判されるべきなのは、イスラムとの対話を唱えている法王としてポリティカル・コレクトネス観念がなさすぎるからであり、私見によれば、より根本的には、カトリシズムのような理性的(合理論的)宗教の方が原初及び現在のイスラム教のような非合理的宗教よりもむしろ危険であるから、です。(太田)

 大部分のイスラム教徒は、コーランは、神とともに恒久的に存在してきたのであって、今日アラビア語で出現しているものと全く同じように天国の銘板に刻まれた状態で永久に存在してきた、と信じている。・・・
 換言すれば、コーランは超歴史的なものなのだ。・・・
 これがアシュアリー派の立場であり、この派が<イスラム世界で>優勢となったわけだ。」(E)

→一時期野蛮を脱したイスラム教は、すぐに、今度は「理論的に」もとの野蛮に戻ってしまった、ということです。(太田)
 
(続く)

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/