太田述正コラム#4396(2010.11.24)
<映画評論17:アフリカの女王>(2010.12.24公開)

1 始めに

 英米合作映画の「『アフリカの女王(The African Queen)』(1951年)、昨夜「見たけど、これ、B級映画の大傑作だ。」とmixiの太田コミュに記したところです。

A:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B
(11月23日アクセス。以下同じ)
B:http://en.wikipedia.org/wiki/The_African_Queen_(film)
C:http://en.wikipedia.org/wiki/The_African_Queen_(novel)

 B級というのは、貶めているのではないのであって、この映画が、「『ホーンブロワー』シリーズでつとに有名な、海洋冒険小説の大家、セシル・スコット・フォレスター<(C.S. Forester)>の同名の原作<(1935年)>を、ジョン・ヒューストン<監督>が映画化した」(A)ものであるからであり、私に言わせれば、同じく大衆小説をもとにしている『風と共に去りぬ』だってB級映画です。
 いずれにせよ、評論は、いつものように、太田流でやりたいと思います。
 なお、主人公役のハンフリー・ボガートは、この作品でアカデミー主演男優賞を受賞しています。相方たるヒロインはキャサリン・ヘップバーンが演じています。(A)
 Aでは筋がよく分からないので、筋をまず頭に入れたい方は、Bを読んでいただく必要があります。

2 この映画の太田流眼目

 (1)時代のしからしめたドイツ悪玉視

 戦間期に書かれた小説の方では、第一次世界大戦が始まり、ヒロインが宣教師たるその兄と住んでいた、ドイツ領東アフリカの片田舎の原住民の村の村人達を、ドイツ兵達がかり集めるだけ(C)なのですが、第二次世界大戦後につくられた映画の方では、かり集めるだけでなく、村に火をつける設定になっていますし、小説の方では、ヒロインの兄は単に病気で死ぬのに対し、映画の方では、ドイツ兵に銃尻で殴られたこともヒロインの兄の死と関係があるかのように描かれています(B)。
 つまり、それぞれの時代を反映して、映画は、小説に比べて、ドイツをより露骨に悪玉視するスタンスが打ち出されているわけです。
 最も端的なのは、終わりの方であり、小説の方では、湖を哨戒するドイツ艦(注1)を攻撃しようとして捕まった(恋仲となっていたところの)主人公とヒロインを、艦長がスパイとして処刑するにはしのびないと、英軍の司令官に引き渡す(C)のに対し、映画の方では、艦長は処刑することにし、絞首刑に処する寸前に、この両名が乗ってきたところの、転覆してしまっていたミニ蒸気船(即製魚雷付)にこの艦が衝突し、この蒸気船が爆発してこの艦も沈み、この両名は救われる、という設定に変えられています(B)。

 (注1)1916年にタンガニーカ湖の戦いで沈没したドイツ艦がモデル。その後、英国が同艦を引き揚げてフェリーボートとして使い続けて現在に至っている(B)。なお、小説では、この史実に忠実に、同艦は英軍によって沈没させられたという設定になっている(C)。
 
 (2)イギリス人固有の職人性

 上記ミニ蒸気船のプロペラの羽の一つがちぎれてなくなり、残った羽も曲がってしまった時、(イギリスの中産階級出身とおぼしき)ヒロインの示唆に従い、(ロンドンの下層階級出身の)主人公(注2)が、フイゴとハンマー等を使って、金物を熱してプロペラ羽状に切り取った上でプロペラに溶接するとともに、残りの曲がったプロペラ羽も元の形状にたたき戻します。

 (注2)小説ではロンドンの下層階級出身だが、映画では主人公を演じたボガードがロンドンの下層階級の英語(Cockney)が話せないため、カナダ人という設定になっている(B)。なお、カナダが英国の属領(dominion)であった当時であり、カナダ人もイギリス人と言ってよかろう。

 また、やはりヒロインの示唆に従い、主人公が酸素ボンベとダイナマイトと小銃の弾でもって魚雷(ただし、独立走行はせず、ミニ蒸気船の前方船腹に穴を開けて先端をその穴から突き出す形で魚雷を装着し、ミニ蒸気船を目標に体当たりさせることで爆発させる代物)を2本つくりあげます。
 (以上、Bによる。)

 原作が大衆小説であれ、というか、大衆小説だからこそ、「実験科学、近代自然科学の発展をイギリスの職人的伝統が支えたということも忘れてはなりません。17世紀末から18世紀初頭にかけてイギリスを訪問した人々は、異口同音に「英国人は実に手先が器用だ。」「イギリスには職人がゴマンとおり、しかも彼らは世界のすべての国の職人の中で最も工夫に長けている。」といった評を残しています。」(コラム#46)が的確なイギリス人評であるとイギリス人大衆が自覚している、ということが分かろうというものです。

 (3)イギリス人固有の男女平等

 同じく、以上から、イギリスでは、男女が、対等の立場で、それぞれの得手を活かしつつ、協力するのが当たり前である、とイギリス人大衆が自覚していることも分かろうというものです。
 これもまた、1935年時点でのイギリスの先進性を示すというより、「モンテスキュー<が>、『法の精神』の中で、「イギリスの娘達は、しばしば、両親に相談することなく、自分達の望むがままの結婚をしている。というのも、法がそれを許しているからである。一方、フランスでは、法によって、父親の同意がない結婚は、禁じられている。」と述べて<いる。>」(コラム#88)ように、個人主義文明のイギリスでは、大昔から、男女が互いの意思で結婚していた、という男女対等社会であった、という事実を反映しているのです。

 (4)イギリス人固有の暴力行使権の留保

 コラム#4383で、「アングロサクソンにおいては、およそ国家というものは、臣民ないし市民による自治のための手段(の一つ)に過ぎず、臣民ないし市民は(少なくとも潜在的には)暴力行使権を留保しています。(米国の場合は、憲法修正第2条参照。イギリスについては、適当な典拠がすぐ出てきません。)」と記したところですが、ヒロインが、ドイツ艦攻撃を主張し、主人公がしぶしぶ最終的にそれに同意したことは、イギリス人大衆の愛国心の強さを示すもの・・それだけ国が信頼されている(コラム#3954)ことを示すもの・・であることはもとよりですが、イギリス人大衆が、通常は国に暴力行使を委任しているけれど、有事において、かつ国に依存できない場合は、自分達個々が留保している暴力行使権が顕在化すると考えていることを示すものではないでしょうか。
 (なお、こんなイニシアティブをヒロインがとったことは、イギリス人のゲルマン性、すなわち、「妻・・らはまた、・・戦場に戦うものたち(夫や子息たち)に、繰りかえし食糧を運び鼓舞・激励をあたえさえする・・。」(<タキトゥス『ゲルマーニア』岩波文庫版>53頁)(コラム#852)を思い起こさせますね。)

3 終わりに

 私がロンドンに滞在した1988年当時の英国では、この映画からうかがえるような、ドイツを悪玉視する風潮が残っていることを、英国人との会話やTV番組から感じ取ることができました。
 果たして今はどうなのでしょうね。
 とまれ、この映画もまた、イギリス(アングロサクソン)理解に大変資するものとして、お勧めです。