太田述正コラム#4210(2010.8.23)
<落第政治家チャーチル(その3)>(2010.12.20公開)

 (3)古典的英国型帝国主義者チャーチル(善人篇)

 「・・・1906年、西アフリカにおける英国の懲罰的襲撃<(注1)>によってもたらされた「恒常的出血」を批判しつつ、チャーチルは、「帝国的言辞がいかなるものであるのかについて無知な人々による原住民の殺害と彼等の土地の窃盗によって、<帝国の>全事業が誤り伝えられがちだ」と自嘲的に記している。・・・」(C)

 (注1)これが何を指すのか不明。(太田)

 「・・・彼は、<英帝国の原住民たる>人々に対する大きな同情と白人の文明化的優越性に対する揺らぐことなき信条とを培った。
 彼は、大英帝国の残酷性から目を逸らさなかったけれど、その目的を疑うことはなかった。
 彼は、英国による統治の下で生きた人々の多くを好意的に見やったけれど、非白人の自治への欲求を不適当で遺憾であると見なしていた。・・・」(F)

 「・・・大英帝国は、実際、戦争中のチャーチルとローズベルトとの間の口論の主要部分だった。
 大統領は、米英両国が、枢軸国の専制政治と戦っているというのに、全世界の人々を植民地による抑圧から解放するために働いていないことが信じられなかった。
 彼は、大西洋憲章中の自治の約束が大英帝国には適用されないとのチャーチルの主張に対し、公然と異議を唱えた。
 首相は、フィリピンで血まみれの手になった米国人達が、大英帝国内での正しいふるまいについて我々に教育ママ役を演じようとは「厚かましいにもほどがある」と思った。
 そして、大英帝国を後ろ盾として、彼はこの偉大なる共和国に対して対峙することができると感じていた。
 ハリー・ホプキンスによれば、ローズベルトからのインドに自治が認められるべきだとの懇請に対し、チャーチルから返ってのは「真夜中に2時間にわたって続いた罵りの連鎖」だった。・・・」(E)

 「・・・その一方で、チャーチルは、本当に慈悲深く、人道的で正義にかなった英国による統治が、進歩、商業と文明を後進諸国にもたらすと信じていた。
 彼は、オムダーマン(Omdurman)での負傷したダーヴィッシュ(Dervish)の殺害<(注2)>、欧州の植民者達によるアフリカ人達の搾取、そしてナタル(Natal)での「原住民の嫌悪すべき屠殺」<(注3)>といった虐待を非難し、<彼等を>「大英帝国のならず者」と銘打った。
 彼は、・・・1899年に(D)・・・征服と支配(dominion)との間の隔たりが「強欲な商業者、時機を失した宣教師、大志を抱く弊紙、及び嘘つきの投機者」によって埋められ、」(E)

 (注2)1884年にスーダンでマーディの叛乱が起こったが、彼等は現在のカルツームの郊外のオムダーマンを拠点とした。1898年のオムダーマンの戦いに英軍が勝利し、この叛乱をおおむね鎮圧することに成功したが、その際、英軍が反乱勢力の負傷した捕虜を殺害したとされる。この叛乱勢力は、ダーヴィッシュと呼ばれたところの、イスラム教スーフィの異端者達だった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Omdurman 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC (太田)
 (注3)ナタルは、後に南アのクワズル・ナタル州になる地域(南ア2番目の大都市ダーバンを擁する)だが、「屠殺」が具体的に何を指すのかは不明。
http://www.southafrica-travel.net/history/eh_natal.htm
http://www.nikkei.com/sports/column/article/g=96958A88889DE2E1E5EBE6E4EBE2E2EAE2E1E0E2E3E2E2E2E2E2E2E3;p=9694E0EBE2E3E0E2E3E2E1EBE3E3 (太田)

 「その結果、被征服者の心中をかき乱し、征服者達のあさましい食欲を掻きたて」(D)
 「ていることに警告を発した。」(E)

 彼はボーア人と宥和し、アイルランド人の怒りを宥め、アムリッツアー(Amritsar)の虐殺<(注4)>を弾劾した。
 彼は時々、帝国の拡大に反対した。・・・」(E)

 (注4)第一次世界大戦(1914〜18年)中、ドイツによって醸成された反英運動の記憶覚めやらぬ、戦後直後の1919年4月13日にインド北部の都市アムリッツアーで起こった英印軍(指揮官は英国人)による一般住民数百人の虐殺事件。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jallianwala_Bagh_massacre (太田)

 「・・・1921年に、植民地相として、彼は大英帝国内では、「人種、肌の色または宗教の間に障壁があってはならないのであって、どんな人もそれにふさわしければどんな場所に行ってもよい」と公述した。
 しかし、彼はただちにこれに限定をつけた。
 「この原則は、極めて注意深く、かつ徐々に適用されなければならない。なぜなら、激しい地域的感情が掻きたてられるであろうからだ」と。
 それは、事実上、実施に移すのは無限に遅らされるべきであると言うに等しかった。・・・」(C)

 「・・・結局のところ、彼は、帝国主義のミクロ経済学的裏側を知っていたのだ。・・・
 後に、彼は、トイが言うように、非白人人種が、「将来において前進を遂げる潜在的能力を持っており、その目的に向かって英国による統治という形での指導を受けるに値する」ことを信じるに至った。・・・
 1945年に、チャーチルは、ボーア戦争を思い出しつつ、「馬に乗って駆け回るのは実に愉快だった」と言った。
 しかし、同じ程度に重要なことは、チャーチルがボーア人を大体において軽蔑するに至ったのは、彼等の原住民たる黒人の取り扱いが原因だったことだ。
 チャーチルは、1909年時点の大英帝国に言及しつつ、「それについて言える唯一のことは、臣民たる人種達のために良かれとの利他的精神でもって遂行されたという点で正当化できるということだ」と言った。・・・」(D)

→悪玉チャーチルも、善玉チャーチルも、要するに、非アングロサクソンたる大英帝国臣民達の大部分について、遠い将来は別として、英本国が善導すべき対象であって、全面的自治を与える(独立させる)ことなど論外だと思っていたということです。
 それならばそれで、これら臣民達を信服させ続けるためにも、もっと積極的に彼等の福祉の向上を図るとともに自治に向けて彼等を教育訓練する必要がありました。
 それを怠ったチャーチルを時代錯誤と言わずして何としましょうや。

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<コーヒーブレイク>

 チャーチルの奥さん(Jennie Jerome, Lady Randolph Churchill)、皇太子時代のエドワード8世と浮き名を流したんだそうです。(F)
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(続く)