太田述正コラム#4176(2010.8.6)
<アダム・スミスと人間主義(その2)>(2010.12.13公開)

 (3)スミスの思想

 「・・・フィリップソンは、スミスに及ぼした他の主要思想家達・・特に彼のグラスゴーでのカリスマ的教師であったフランシス・ハッチソン(Francis Hutcheson<1694〜1746年
http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Hutcheson_(philosopher) (太田)
>)、そしてスミスの目覚ましくかつ忠実な年長の友人たる哲学者デーヴィッド・ヒューム・・の影響の分析にとりわけ優れている。
 この二人とも、政治と道徳性に関する過度に合理主義的なそれまで諸理論、すなわち、国家というものは純粋に合理的な「契約」の下につくられたとか、倫理は利己心(self-interest)の合理的計算へと矮小化できるとかいった考え方に抗した人物だった。
 ヒュームの見解では、これらの事柄は、慣習、習慣、諸利害の自然の収束、そして「効用」の一般的承認、といった言葉によって、より良く説明ができる、というものだった。
 スミスの「道徳感情」の理論は、我々がいかに他者に共感するか、そして、我々が他者によっていかに共感されることを欲するか、という観点から道徳的ふるまいを分析することによって、この方向に更に歩みを進めた。
 情熱(passion)<・・すなわち道徳感情・・>があらゆることを突き動かしているのであって、我々が合理的判断と呼んでいるものは本当のところは<道徳感情に根ざす>想像力の行使なのだ、というこのような人間心理の説明ぶりは、フィリプソンが示すように、『国富論』の理論にとって最も根底的なものなのだ。

→(スコットランドならぬ)イギリスのような人間(じんかん)主義社会であって初めて、倫理的な社会、及び効果的かつ効率的な政府を形成できる、とスミスは考えたわけです。(太田)

 スミスの理論の近現代における粗っぽい戯画は、利己心の追求が一般的善を自動的に促進する、というものだが、スミスは、人々が追求する「利己心」は、しばしば想像された善、単なる真似の産物、そして称賛されることへの欲望であることに鋭く気づいていた。
→人間主義社会でない社会で、人々にいたずらに利己心を発揮させれば、非倫理的な社会、非効果的かつ非効率的な政府がもたらされかねない、ということです。(太田)

 スミスの著作<に書かれたこと>の多くには、実際、どうして欧州の諸社会が、合理的に<考えれば>なしとげられたはずの速さでもって繁栄を達成できなかったのか、を説明しようというねらいがあった。
 <欧州に、イギリスと比較しての後進性をもたらした>犯人は大勢いた。
 土地をより多く獲得することが自分達が既に所有していた土地の生産性を改善することより重要だと思った愚かな地主達、保護主義が国全体を資すると自分達の政府を説得した商人達、そして「緩やかな(easy)税と正義にかなった寛容なる行政(tolerable administration of justice)」を維持すること以外のほとんどあらゆること(とりわけ、高価なる諸戦争の遂行)をやった諸政府・・。・・・」(A)

→人間主義社会でない欧州において、農民はさておき、君主、貴族(地主)、商人がみな利己心だけを発揮してきたことが、欧州の政治経済をイギリスのそれに比べて停滞させた、というわけです。(太田)

 「・・・フィリップソンは、ヒュームとスミスの思想を共同プロジェクトとして取り扱っている。・・・」(B)

→二人とも、文化的には欧州に属するスコットランドに生まれ育った人でありながら、(スコットランドが合邦していた)イギリスを内側から熟知しており、かつ欧州滞在経験もあったことから、欧州とイギリスを比較しつつ、イギリスの本質を見きわめ、それぞれ、哲学と経済学に軸足を置きつつ、見きわめたことを著作にまとめた、というのが私の理解です。(太田)

 「・・・スミスの哲学では、財・サービス同様、感情についても、交易することで生活を送っているという意味において、人間は全員交易者であることから、経済市場群と道徳市場群とは同じ流儀で機能しているとする。
 すなわち、交易は、我々の生存、理解、及び幸福がそれに依存しているところの技なのだ。
 実際、我々が互いを知り合うに至るのは交易の結果なのだ。・・・」(D)

→利己心的市場(経済市場)と人間主義的市場(道徳市場)という車の両輪が機能していて初めて人間はまともな生活を送ることができる、ということになるわけです。(太田)

 「・・・トーマス・ジェファーソンと(とりわけ)ジェームス・マディソンは、スミスの宗教宗派に関する自由交易の主張を採用し、それを米国憲法修正第1条に体現した。
 「合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律・・・を制定してはならない」と。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%88%A9%E7%AB%A0%E5%85%B8_(%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB) (太田)
と。・・・」(B)

→スミス自身は、英国教を否定したり、イギリスが行っていたカトリック教徒差別を批判したりしていなかったにもかかわらず、ジェファーソンらは、スミスらの主張を曲解し、先鋭化するとともに、イギリスが持っていなかった成文憲法という反民主主義的装置を考案し、そこに曲解、先鋭化したスミスらの主張を盛り込んで後世の米国人達を拘束しようとしたわけです。
 いかに、米国建国の父達が異常でできが悪かったかは、ここからもお分かりいただけるのではないでしょうか。(太田)

3 終わりにに代えて

 スコットランドが文化的には欧州に属することは、それが「飢饉、神政政治、及び内戦の記憶覚めやらぬ国」であるとか、「スミスの頃の<スコットランドの長老>教会の宗教的暴虐さ・・・狂信者達が大勢おり、ふるまいや言論において言うことをきかないように見えた人々に付きまとった」といったところからも、明らかです。
 イギリスは、内戦こそたびたび経験したけれど、飢饉や神聖政治とは無縁であり、一時期の清教徒を除き、イギリスには宗教的暴虐さや狂信者達も存在したことがなかったからです。

 それにしても、スミスは変わった人物でした。
 まず、彼は、生涯にわずか2つの著作(上出)しか残していません。(B)
 それに、彼は亡くなる時に、友人達に、彼の講義ノート類や未完に終わった著作の原稿や手紙類を焼却するよう依頼し、友人達が馬鹿正直にそれを実行したために、彼が送った手紙を除けば、彼を物語る一次史料がこの2つの著作以外に全くと言っていいほどない状況をもたらしました。
 そもそも、スミスがどんな容貌だったのかすら、正確なところは分からないのです。
 彼は、自分の母親の肖像は描かせているというのに、自分自身の肖像画を一切描かせなかったからです。
 そして彼は、浮いた話が一切ないまま一生独身を通し、成人になってからの大部分の期間、母親、及び家事を行った女性の従兄弟・・彼女とも全くスキャンダルの気配がない・・と過ごした堅物である、ときているのですから・・。(A)

(完)