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太田述正コラム#4354(2010.11.3)
<映画評論15:戦場のピアニスト(その2)>(2010.12.3公開)

 (3)ポーランドにおけるユダヤ人迫害

 ポーランドでも、カトリシズムに由来するユダヤ人に対する偏見と容易に同化しないユダヤ人に対するナショナリスティックな反感から根強い反ユダヤ人意識がありました。
 ユダヤ人は、ロシア革命をその多くが支持した、という印象を持たれたことから、第一次世界大戦後、独立を回復したポーランドにおいて、反ユダヤ人意識が一層高揚しました。
 にもかかわらず、頻発するポグロム(ユダヤ人虐殺)やロシア内戦を逃れてウクライナとソ連からどんどんユダヤ人がポーランドに流入して来ました。
 戦前のポーランドでは、約10%のユダヤ人しか同化していたとは言えず、80%はすぐにユダヤ人と分かる人々だった、という説があります。
 例えば、1931年時点のデータですが、ポーランドのユダヤ人でポーランド語を第一言語とする者は12%しかおらず、大部分の者の第一言語はイーディッシュ語でした(一部がヘブライ語)。
 ユダヤ人に対して理解のあった首相が1935年5月に亡くなると、ポーランドにおけるユダヤ人迫害は更に激しくなります。
 例えば、ポーランドの大学はユダヤ人枠をしぼったため、1928年には大学生の20・4%を占めていたユダヤ人は、1937年には7.5%まで減ってしまいます。
 また、ユダヤ人は公的な仕事に就くこと等を禁じられていたため、彼等はそれ以外の仕事に就かざるをえず、実に、医者の56%、教師の43%、ジャーナリストの22%、弁護士の33%をユダヤ人が占めました。
 ただし、ポーランドのユダヤ人には貧しい者も多く、戦争直前の段階で、350万人弱にという、欧州最大規模に達していたところの、ポーランドのユダヤ人は、西欧のユダヤ人の中で、概ね最も同化しておらず、かつ貧しいと言ってよい状況でした。
 さて、第2次世界大戦中に約600万人のポーランド国籍の人が亡くなりましたが、その半分がユダヤ人です。
 ドイツがソ連に対しバルバロッサ作戦を開始すると、ソ連占領下のポーランド東部のユダヤ人の虐殺をナチが敢行しますが、その中にはポーランド人が協力して、あるいはポーランド人の積極的参加の下で行われたものがあります。
 ポーランドは、ナチスによって占領された国の中で唯一、ユダヤ人をかくまったり助けた者は誰であれ、死刑を科された国です。
 しかも、家族、隣人達、そして場合によっては村全体が連座して死刑を科されました。
 このような過酷な状況下であったことを考慮しなければならないわけですが、戦争の間、迫害されていたユダヤ人に対してカトリック教会は一貫して否定的態度を維持しましたし、また、一般のポーランド人の中にも否定的な態度をとるものが少なからずいました。
 ロンドンのポーランド亡命政府の中にさえ、反ユダヤ感情がわだかまっていました。
 他方、杉原千畝が授与されているところの、自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人に授与されるヤド・バシェム(Yad Vashem)賞
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%A0%E8%B3%9E
を、諸国の中では最も多く、6195人ものポーランド人が授与されている、ということもまた事実です。
 戦後、ポーランドでは、生き残ったわずかのユダヤ人と、ドイツやソ連から流入したユダヤ人を合わせてもユダヤ人人口は18万から24万人にまで縮減してしまっていました。
 ところが、そのユダヤ人にポーランド人による迫害が再開され、たびたびユダヤ人殺害事件が起きるのです。
 これに加えて共産主義ポーランドへの忌避感等もあり、機会をとらえてユダヤ人で国外移住する者が続出し、ユダヤ人人口はその約半分にまで減ってしまいます。
 1967年の中東戦争によってソ連圏が支援していたアラブ側が壊滅的敗北を喫するとポーランド政府は反ユダヤ政策をとり、ユダヤ人人口は国外追放によって更に減ります。
 こうして、ポーランドの共産主義政権が倒れた1989年時点におけるポーランドのユダヤ人人口は、わずか5,000〜10,000になってしまっていたのです。
 (以上、特に断っていない限り(C)による。)
 このように、ポーランドにおいても、ユダヤ人は、20世紀の間も、一貫して迫害され続けたわけです。

 (脚注)
 ポーランドのユダヤ人で有名な人に、エスペラントを創案したルドヴィーコ・ラザーロ・ザメンホフ(Ludovico Lazzaro Zamenhof。1859〜1917年。眼科医・言語学者
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%95 (英仏独語のウィキが存在しない!)
)、1978年にノーベル文学賞を授与されたイーディッシュ語作家アイザック・バシェヴィス・シンガー(Isaac Bashevis Singer。1902〜91年。1935年に米国に移住
http://en.wikipedia.org/wiki/Isaac_Bashevis_Singer 
)、2007年にノーベル経済学賞を授与されたレオニード・ハーヴィッツ(Leonid Hurwicz。1917〜2008年。経済学者・数学者。ドイツのポーランド侵攻時にロンドンにおり、結局米国に移住
http://en.wikipedia.org/wiki/Leonid_Hurwicz
)がいるほか、イスラエルの首相になったところの、どちらもワルシャワ大学で学んだベギン(Menachem Begin)とシャミール(Yitzhak Shamir)がいる。

(続く)

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