太田述正コラム#4338(2010.10.26)
<かつてドイツの時代があった(その3)>(2010.11.26公開)

 (3)黄金時代

 「・・・ワトソンは、カントの時代が、(その他諸々とともに、)ハイドンの交響曲群、ゲーテの詩、ヘルダー(<Johann Gottfried von >Herder<。1744〜1803年。ドイツの哲学者・神学者・詩人・文芸評論家
http://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Gottfried_Herder (太田)
>)の民族史(national history)の発見、ヴィンケルマン(<Johann Joachim >Winckelmann<。1717〜68年。ドイツの歴史家・考古学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Joachim_Winckelmann (太田)
>)の古代芸術の考古学を生み出したことを思い出させてくれる。
 最後のものは、とりわけイミシンだ。
 というのは、ワトソンはこの本の副題を(12世紀と15世紀<(注7)>に続く)「第三のルネッサンス」としているからだ。・・・」(B)

 (注7)低地地方(現在のオランダ・ベルギー)における、いわゆる北方のルネッサンス。
http://en.wikipedia.org/wiki/Renaissance_in_the_Netherlands (太田)

 「ドイツ性は、我々の理解によれば、17世紀末から18世紀初にかけて出現したが、それは敬虔主義(Pietism)<(注8)>についての的確な把握なくしては理解することができない。・・・」(A)

 (注8)「特定の教理遵守することにではなく、個人の敬虔な内面的心情に信仰の本質を見る信仰的立場を言う。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%99%94%E4%B8%BB%E7%BE%A9

 「・・・敬虔主義は、信者達に対し、この地上における生活を改善することに自分達自身を捧げるよう促した。
 しかし、彼がドイツのプロテスタントの遺産(及び彼のこの本の中で満ち溢れている説教者達の大勢の息子達)を強調することは正しいけれど、世俗化したプロテスタンティズムもこの地を同じ程度に形作った<ことを忘れてはならない>。
 英国もそうだった。
 もっとも、英国では、ドイツに比べてカトリックとユダヤ人はより小さな役割を演じたが・・。

→ドイツについては、世俗化したプロテスタンティズムというよりも、端的に無神論と言うべきではないでしょうか。すなわち、18世紀以降、無神論を中核として、それとカトリシズム、敬虔主義がせめぎあった、と見るわけです。他方、イギリスの16世紀における英国教会の成立は、世俗化したプロテスタンティズムの採用というよりは、キリスト教化される前の自然宗教への回帰である、と私は見ています。(太田)

 それよりももっと助けになるのは、彼が、新しい知識と受けた教育によって定義された新しい階級を創造したところの諸大学の役割を強調した点だ。
 18世紀にゲッティンゲン(Göttingen)とハレ(Halle)において、そして19世紀にベルリンとボンにおいて、ドイツは近代的な大学を発明した。
 そこでは、人文と科学双方について教育と研究とが結合された。
 当時、ハーバードとオックスフォードは保守的で神学が中心だった<ことを想起して欲しい>。
 大学の卒業生達が専門家達からなる新しい官僚機構に入り、彼等の実験所と古文書に係る営為は、研究をして、「世界における権威のもう一つのライバルたる形態」にした。・・・」(C)

→ドイツの大学を持ち上げすぎです。(太田)

 「・・・社会的ダーウィン主義、及びそれと競争関係にあった反ユダヤ主義の諸系統・・それぞれが劇毒性を競い合った・・の19世紀末社会の全階級による広汎な受容、並びに第一次世界大戦後におけるペシミズムと嘆きが蔓延する感覚は、他の何物よりもリルケ(<Rainer Maria >Rilke<。1875〜1926年。ボヘミア/オーストリアの詩人・批評家
http://en.wikipedia.org/wiki/Rainer_Maria_Rilke (太田)
>)の愁いを帯びた詩に顕現している。・・・」(E)

 「・・・諸大学は、個人的修養(cultivation)という新しい観念(それを盲目的崇拝の対象としたドイツ語では「ビルドゥング(Bildung<≒教養>)」)を神聖な場所に安置した。
 カントから<トーマス・>マン(<Thomas> Mann<。1875〜1955年
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Mann (太田)
>)に至るドイツ人達は、この「敬虔主義の世俗的形態」を抱懐し、真実を発見するために理性や啓示に依拠することなく、<己の>内面に向き合った。
 そして、しばしば、1915年のマンのように、小汚い政治よりも神秘的な全体性(wholeness)を選択した。・・・」(C)

 (4)暗転

 「・・・<最もドイツ的なものは、>近代的な主観的個人性だったが、それは、マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger<。1889〜76年
http://en.wikipedia.org/wiki/Martin_Heidegger (太田)
>)<(コラム#3617、3678、3712、3997、4003)>のような哲学者によって詳しく説明された。
 仮にハイデッガーがナチではなかったとしても、果たしてヒットラーが<ドイツに与えられた>天罰(nemesis)なのか、それともドイツ的天才の極致(culmination)なのか、という問題に我々は依然として直面させられることだろう。
 マンがゲッペルス(Goebbels)は彼のできそこないの子供であると認めざるをえなかったように、ワトソンは、ドイツがナチスと自分との関係を否認することができないことを知っている。
 ワトソンは、ドイツの破滅に関する多くの、異なった、そして相矛盾する理論を借用し、教育を受けた中産階級がヒットラーを止めるには弱すぎたとか、この中産階級がそうする責任を放棄したとか、この中産階級の反政治的諸観念がドイツ民族に山師による贖罪コミュニティーの約束を歓迎するよう教えたとか、種々の示唆を行っている。・・・」(C)

→観念論的土壌の下で、ドイツの無神論がカトリシズムをドイツ・ナショナリズムやマルクス主義やナチズムのようなイデオロギーの形で復活させた、というのが私の見解です。(太田)

3 終わりに

 私の仮説を並べたようなシリーズになってしまいました。
 機会があれば、ドイツ論を再度、更に詳細に取り上げたいと思いますが、ヒットラーは「ドイツ的天才の極致」だった、というのが、とりあえずの私の結論です。

(完)