太田述正コラム#4336(2010.10.25)
<かつてドイツの時代があった(その2)>(2010.11.25公開)

 (2)ドイツの時代の始まり

 「・・・バッハ(Bach<。1685〜1750年。ドイツの作曲家
http://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Sebastian_Bach (太田)
>)は、正統派のルター派だったが、音楽はヘブライ的(Hebrew)であるという聖書的伝統を信じていた。
 彼は、男やもめであり、家庭的な男性であって、2人の妻との間に20人の子供をもうけた。
 他方、「<プロイセンの大王たる>フリードリッヒ(Frederick< II。1712〜86。プロイセン王:1840〜86年
http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_II_of_Prussia (太田)
>)は、両刀使いの人間嫌いで、政治的結婚をしたが子供がいなかった」とジェームス・ゲインズ(James Gaines<。1947年〜。米国のジャーナリスト
http://en.wikipedia.org/wiki/James_R._Gaines (太田)
>)は<フリードリッヒとバッハとの>会合の叙述において語る。
 「<フリードリッヒは、>信仰を失ったカルヴィン派信者で彼の宗教的寛容は、あらゆる宗教をおしなべて侮蔑していたという事実に由来していた」と。

→欧州における宗教改革とは、カトリック教会からの多数の(=普遍性を失った、ないしは民族性を帯びた)(小カトリック的教会たる)プロテスタント教会の分裂であると同時に脱キリスト教(究極的には無神論)への第一歩である、というのが私の認識です。バッハは前者の象徴であり、フリードリッヒは後者の象徴であると考えればよいのではないでしょうか。(太田)

 バッハはドイツ語で書き、しゃべった。他方、大王の名高い宮廷では、みんながフランス語をしゃべった。フリードリッヒは自分が「ドイツ語の本を読んだことが一度もない」ことを自慢していた。

→この点においては、当時の欧州における、バッハは民族性の象徴、フリードリッヒは国際性の象徴、と言うべきでしょうか。(太田)

 この二人の違いは、音楽の趣味にもあらわれていた。
 バッハは、教会音楽、とりわけ、古よりの匠であって極めて洗練されたものへと進化したため、当時の多くの音楽家達が自分達自身を「疑似神聖芸術の管理人」と思ったところの、カノン(canon)<(注2)>とフーガ(fugue)<(注3)>の「習得される対位法(learned counterpoint)<(注4)」の最も輝かしい代表的人物だった。

 (注2)「複数の声部が同じ旋律を異なる時点からそれぞれ開始して演奏する様式の曲を指す。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%B3_(%E9%9F%B3%E6%A5%BD) (太田)
 (注3)簡単に要約できない。以下を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%AC
http://en.wikipedia.org/wiki/Fugue (太田)
 (注4)「伴奏&メロディ(主旋律)&裏メロ(対旋律)という構造の曲の作り方。」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1421742334
 なお、カノンは簡単な対位法の例、フーガは複雑な対位法の例と考えればよい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Counterpoint (太田)

 フリードリッヒは、このようなふれこみは大げさだと考えていた。
 彼にとっては、対位法は、時代遅れだった。
 彼は、警句的に、「教会の臭いのする」音楽をしりぞけた。・・・
 バロック(baroque)<(注5)>は、本質的には反宗教改革教会のスタイルだった。

 (注5)「16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF

 そして、その狙いは、視覚芸術においては、カトリック教会の偉大な改革者の一人であるローマのガブリエル・パレオッティ(Gabriele Paleotti<。1522〜97年。イタリア人
http://en.wikipedia.org/wiki/Gabriele_Paleotti (太田)
>)枢機卿が要約したように、「教会の息子達の心に火をつけ、信仰深き者達の目の前に壮麗な光景」を見せることで、教会を「天国のイメージが地上に現出したもの」とするところにあった。
 音楽におけるバッハの狙いは、それがプロテスタントの音楽であったにもかかわらず、おおむね同じだった。
 このような理解、このような美学は・・・バッハの・・・ロ短調ミサ(Mass in B Minor)<(注6)>・・・<とバッハ>自身の死によって死んだ。・・・

 (注6)全曲を聴きたいのなら、録音品質が悪いがこれをどうぞ。↓
http://www.youtube.com/watch?v=sMUXUQpPdaE&feature=related ←1、以下25まで。
 感じだけでよいということであればこれ。↓
http://www.youtube.com/watch?v=G8XHrT7DBwA&feature=related (太田)

→脱キリスト教(フリードリッヒ)と民族性(バッハ)のねじれ的ケミストリーによって、ドイツにおいてクラシック音楽が生まれた、ということになりそうですね。(太田)

 フリードリッヒ大王・・・は28歳で王位に就いた。・・・
 他の欧州の主要な君主は顕示的贅沢でもって特徴付けられる宮廷編制の上に君臨したのに対し、プロイセンの国王達は軍人の制服を着て吝嗇と質素の好適倫理を鼓吹した。・・・
 プロイセンの官僚機構は、当時においてさえ、その欧州の他の官僚機構よりも、はるかに高い水準の誠実さと効率性へのコミットメントで良く知られていた。・・・」(B)

(続く)