太田述正コラム#4322(2010.10.18)
<『網野史学の越え方』を読んで(その1)>(2010.11.18公開)

1 始めに

 宮里立士さんが、今度は、小路田泰直編『網野史学の越え方--新しい歴史像を求めて』(ゆまに書房 2003年4月)を提供してくれたので、例によって、私が面白いと思った部分を皆さんに紹介しようと思い立ちました。
 ところがです。
 実は私、網野善彦(1928〜2004年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B2%E9%87%8E%E5%96%84%E5%BD%A6
の本である『日本社会の歴史(上・中・下)』(岩波新書、1997年) を、出たばかりの頃に読んだことがあるのですが、目新しい話がいくつか盛り込まれていたものの、余り面白くない上、著者が日本史(世界史?)に関して新たな大きな物語を描こうとしているのかどうかが不分明であり、がっかりさせられたことがあります。
 そういうわけで、果たして網野に史観の名に値するようなものがあるのか、また、そのこととも関連し、彼を「越え」るべき大きな存在と見ること自体に無理はないのか(注1)、などといった懸念を抱きつつ、表記の編著の頁を繰ってみたのですが、呆れましたねえ。

 (注1)網野のような「歴史学者」ではなくて「社会人類学者」だが、「<フランスの>レヴィ=ストロース(Levi-Strauss)は、おおむね、たった一人の学派として終始した。彼は、極めつきに風変わりなタイプの分析を売り込んで歩いたけれど、 誰もその上に<学術的成果を>構築することができなかった」とされる。
http://www.nytimes.com/2010/10/18/books/18book.html?hpw=&pagewanted=print
(10月18日アクセス)
 ということは、ストロースは学者ではなく、超一流のエッセイストであったということだろう。(私自身、彼の『悲しき熱帯』(邦訳)を文学としてワクワクしながら読み終えた記憶がある。)
 網野は、しかし、超一流どころか、一流のエッセイストとすら言えないのではなかろうか。
 網野の著作に直接あたっていただいた上で、異論があればお寄せいただきたい。

 網野自体が大きな存在ではないとしても、網野を論評しようという共著者の方々がそれなりに史論について語るべきものを持っておられればまだしも、失礼ながら、そのほとんどが、どうやら網野同様、そのような名に値するものなど持ち合わせておられなそうなだけでなく、そもそも、人様に読ませるような文章を書こうとされていないのではないかと思われる方すらおられ、読み終えるのが苦痛でした。
 結局、収穫はほとんどなかったのですが、小路田の担当した章(注2)の一部分において、(全く網野とは関係がなさそうではあるものの、)日本の民主主義の起源に関わる興味深い指摘がなされていたので、そこだけご紹介させていただくことにしました。

 (注2)他の共著者による網野のアジール論/無縁論の解説に比べると、この章の冒頭でなされる、小路田による解説は分かり易いが、私には、伊藤正敏のアジール論/無縁論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%AB
の方が整理されているように思われる。

2 小路田の指摘

 (1)指摘

 小路田は、以下のような指摘を行っています。

 (慈円(1155〜1225年。藤原忠通の子。天台座主就任4回。歌人としても有名
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%86%86
)の歴史書『愚管抄』(1220年頃成立、その後改訂。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E7%AE%A1%E6%8A%84
岩波文庫)からの引用については、カタカナ表記をひらがな表記に改めた。)

 [編著の103〜105頁]

 「<慈円は、『愚管抄』(同108〜109頁)で>「をとろへては又をこりをこり」するのが世の中だと述べてい<ま>す。
 時間とともに世の中はどんどん悪くなっていくといった思想ではなくて『愚管抄』で語られている末法思想<(注3)>とは、世の中がではなくて、人間の能力(「器量」)の方がどんどん傾向的に衰えていくという考え方を指していわれる思想のことなのです。・・・
 「日本国の世のはじめより。次第に王臣の器量果報をとろへゆく」<(同295頁)>と。この認識が末法思想なのです。
 では、・・・世の中は時間の経過と共にどうなっていくと慈円は考えたのでしょうか。・・・一つ一つは衰えていく人間の「器量」を「ひしとつくりあは」せ、合成された「器量」をつくり続けることによって存続していくと考えたのです。具体的にいうと、最初は天皇一人の「器量」によって保たれていた国家が、やがて皇族(神功皇后や聖徳太子)の「器量」を「つくりあは」せ、次いで蘇我氏や藤原氏・・・<更には>将軍・・・といった臣下の「器量」を「つくりあは」せることによってようやく保たれるようになると考えたのです。
 
 (注3)「釈迦の立教以来1,000年(500年とする説もある)の時代を正法(しょうぼう)、次の1,000年を像法(ぞうぼう)、その後10,000年を末法の三時観で分けて考え、釈迦の教えが及ばなくなった末法においては、仏法が正しく行われなくなるという、仏教(特に大乗仏教)における下降史観・・・。・・・日本では平安時代の頃から現実化してきた。特に1052年(永承7年)は末法元年とされ<・・・た。>この時代は貴族の摂関政治が衰え、代わって武士が台頭しつつある動乱期で、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつあった。また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃していった。このように仏の末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、人々の現実社会への不安は一層深ま<った。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95%E6%80%9D%E6%83%B3

(続く)