太田述正コラム#4138(2010.7.18)
<縄文モード・弥生モード論をめぐって(その2)>(2010.11.17公開)

3 縄文時代・弥生時代

 (1)縄文時代

 「縄文文化には・・例えば人間と人間のつながりを維持する道具、いかにも呪術的というか祭祀的というか、・・・製品が多く見られる。それが余剰のあらわれだと思っている・・・。そういう食料生産にかかわらない道具類がいっぱいある・・・。」(広瀬 114〜115頁)

→日本文明の基底、すなわち縄文文化は人間(じんかん)主義の文化である、という私の主張と符合しますね。(太田)
 
 (2)縄文時代から弥生時代へ

 「弥生時代の開始年代が紀元前1000年になった場合も、東アジア世界では殷末周初の動乱期なので、<中国の長江流域の>人びとが<水田稲作技術をひっさげて日本列島等をめがけて>広範囲に移動してもおかしくはない(注5)・・・が、・・・私は縄文時代の人びとが水田稲作を受容しなければならなかったのは、環境の悪化、気候の寒冷化により採集経済も悪化していた<ため>・・・ではなかったかと考えています。」(禰宜田佳男 21〜22頁)

 (注5)「日本人はY染色体D系統を多く保有して<いるところ、>このD系統は中国・朝鮮半島には見られず縄文人特有とされる。・・・
 1万数千年前に、大陸からD2系統が入ってきた。これが縄文人である。D2は日本だけで見られる系統であり、アイヌ88%、沖縄県56%、本州42-56%で、朝鮮半島では0%である。近縁のD1,D3がチベットで見られる。・・・
 O2a/O2b系統は長江文明の担い手だと考えられている。O2b系統が移動を開始したのは2800年前である。長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは南下<するとともに、>西方及び北方へと渡り、日本列島、山東省、朝鮮半島に・・・達し・・・長江文明の稲作を持ち込んだと考えられる。・・・<このうち、日本列島にやってきたのが弥生人である。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA
(7月16日アクセス)

 (3)弥生時代(とかつて言われてきた時代)から古墳時代まで

 「<いずれにせよ、このように<北部九州における>弥生時代の開始が紀元前1000年ということになると、>水田稲作の拡大力は従来考えられてきたほど強力ではなく、・・・北部九州に水田稲作文化が到達してから400〜500年もの長い間、・・・畿内にそれが伝播しなかった<ということになる>・・・。」。」(広瀬 40、43頁)

 「<弥生>中期初頭の<福岡市の西区早良平野の>吉武高木遺跡の3号木棺墓は、それ以降にないような銅剣、銅鉾、同戈の三点セットに多紐細文鏡(注6)をもっていて、そしてヒスイ製の勾玉というふうに、朝鮮半島南部の首長墓と同じ組成の副葬品をもっているわけです。
 しかし、そこから後はそういうのは少ない。だから、最初に首長墓というのが北部九州で顕在化したときのきっかけは、ひょっとしたら南部朝鮮の首長層がたくさんの人びとを引き連れてきて、それが大きなインパクトになって、内在的な要因を前提としながらも、北部九州の社会が分化していくということもあるかもしれない。」(広瀬 105頁)

 (注6)「青銅製の舶載鏡で、紀元前7〜前6世紀の中国遼寧地方に起源を持つ。朝鮮半島では29面以上知られている。日本では11面<(うち7箇所が北部九州)>見つかっている。・・・名称が示すように、紐(つまみ)が2個あるいは3、4個付いており、円で区画された内・外区には直線で幾何学文様が描かれている。又、縁の断面が半円形である。」
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page840.html
(7月18日アクセス) (太田)

 「コメ・・・焼き畑<でつくった陸稲>・・・をつくり出してからでも、いわゆる縄文文化というのは・・・それ以降も2千数百年はほとんど文化の様相は変わらない・・・。それに対して、弥生文化は・・・最初の500年間は緩やかだったけれども、そのへんから一気に変わり出した。・・・その最初が<上出の弥生>前期末の政治的社会の形成、二つ目は紀元前1世紀中頃ぐらいの前漢王朝との接触<(「漢の倭の奴の国王」)>による首長層の意識の改変、・・・次・・・は2世紀後半ぐらいの王墓の誕生。・・・<そして、>3世紀半ばの前方後円墳<(後出)>の成立による日本列島全体の政治的統合に至ります。・・・だから縄文文化と弥生文化は違う。」(広瀬 112〜113頁)

→弥生時代は、静的であった縄文時代とは違って、動的に「発展」し続けた時代であったということです。(太田)

 「墳墓をつくることによって階層性を表現する何かを生み出す社会というふうにいえば、紀元前5世紀から古墳時代の終焉まで、・・・<を>一くくりの時代としてとらえてしまってはどうでしょうか。」(小路田 119頁)

 「首長墓というものが生まれてから消えるまで、副葬品で終始一貫見られるのは武器です。・・・弥生前期末から7世紀後半までずっと入っています。・・・大王墓から農民墓にいたるまで武器が副葬されています。」(広瀬 150頁)

 「韓国<南西部>の栄山江流域に見つかった前方後円墳(注7)・・・」(広瀬 159頁)

 (注7)「一般的には、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指す<とされるところ、その>中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。
 この時代に<大和政権>が・・・統一政権として確立し、前方後円墳は<大和政権>が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。・・・
 6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった。これは、<大和政権>が確立し、中央・地方の統治組織が出来上がり、より強力な政権へ成長したことの現れだと解されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E6%99%82%E4%BB%A3
(7月17日アクセス) 
 なお、ウィキペディアで多用されている「ヤマト王権」という言葉、及び大和政権を指していると考えられる場合の「倭」は、混乱を避けるため、以下、すべて「大和政権」と言い換えた。(太田)

→弥生時代(とかつて言われてきた時代)の始まりと、その延長と考えられる古墳時代の双方において、それぞれ、朝鮮南部と北部九州、朝鮮南部と日本、との間に密接なつながりがあったことがうかがえる。(太田)

 (4)律令国家の帝国性

 「<日本で>律令国家が生み出され<たのは、>・・・随・唐帝国の脅威に対処するため・・・の権力集中と軍事体制強化の所産であった。・・・朝鮮諸国<も>・・・日本と同じように、漢字と中国の儒教仏教を摂取し、中国の統治技術を継受しながら国家を形成した。ただ日本と異なり、「律令」法典は編纂しなかったらしい。」(吉田孝『日本の誕生』岩波新書1977年(54頁から孫引き))

 「<この吉田さんの考えからすれば、>国家をまだ形成していないはずの<日本列島>の王権が朝鮮諸国間の対立・構想に積極的に介入していますので、すでに帝国的性格をもっているという<おかしな>ことになります。日本が「東海の帝国」としての国家形成をめざした理由は、その前身である<日本列島の>王権が初めから帝国的性格を有していた点にあるようです。」(西谷地晴美 56頁)

 「<九州北部に所在したとする説が有力になりつつある>魏志倭人伝・・・にいう・・・倭国は・・・3世紀の前半、倭王卑弥呼を戴きながらも、実質的には小国家の集まりであった。そのような状態は、・・・すくなくとも3世紀前半から4世紀半ばまで・・・続いていたらしい。・・・
 朝鮮半島でもその南部の加羅地方が、・・・対馬海峡を挟んだ・・・北部九州同様に小国家群のまま残されていることに気づく。<向こうには>新羅、百済など<、こちらには>・・・大和政権が<あったわけだ。>
 4世紀以降の極東の古代史は、この対馬海峡を挟んだ2つの地域に広がる小国家地域をその周囲に形成された統一王国が蚕食していく歴史でもある。いち早く九州地方を手に入れた大和政権が、つぎに海峡を越えて朝鮮半島南部へ進出していく(注8)ことは、そのような動向からみれば決して不自然なことではない。・・・

 (注8)「<大和政権>は、4世紀以降朝鮮半島に進出し、新羅や百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが広開土王碑文などから知られる。・・・また、『隋書』などにおいても、<大和政権に>は珍物が多く、高句麗や新羅を従えていたとの記述が存在する。・・・
 4世紀後半から5世紀にかけて、<大和政権>軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑」文にみえる。この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して<大和政権>軍の侵攻を阻もうとしたと『日本書紀』に記述があり、これを磐井の乱(527年)として扱<っ>ている。これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が北部九州に重く、乱となったと考えられるが、この時代はまだ北部九州勢力が<大和政権>の完全支配下にはなかったことも示唆している。・・・
 欽明朝では、戸籍が造られ、国造・郡司の前身的な国家機構が整備された。また、この欽明朝では仏教<が>・・・538年に百済から伝来した。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E6%99%82%E4%BB%A3 上掲(太田)

 私は律令国家以前の段階で大和国家は実質的に帝国だったのであり、律令国家はその実が失われたあと、なおもその名を求めたものととらえることができると思う。」(若井 197〜198頁

→私は、律令国家の時代も弥生時代の延長ととらえている・・全体を「広義の弥生時代」と呼んでいる・・ところだが、この考え方は十分成り立つのではなかろうか。
 また、この広義の弥生時代においては、一貫して朝鮮南部と日本とは切っても切り離せない関係にあった、という感を改めて深くした。(太田)

 (5)日本の平和性

 日本の平和性は、前出のように武器時代と言っていいような弥生時代においてすら、戦争があった地域が限られている(注9)ことからもうかがえます。
 
 (注9)「弥生時代<において>は・・・北部九州から伊勢湾沿岸までには、環濠集落・高地性集落、矢尻の発達、殺傷人骨、武器の破損と修繕などの戦争に関わる可能性のある考古学事実が数多くそろっている。戦争があった社会と推定される。南九州・東海・南関東・長野・北陸・新潟は、戦争があったと考えられる考古学的事実の数が多くない。北関東と東北には戦争があった可能性を示す考古学事実はほとんどない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
(7月16日アクセス)

 まさに、このような平和性は、以下のように、日本史を貫く基調の一つであると言ってよいでしょう。

 「大和政権の地方征服には二通りの方法がとられたらしい。まず一つが、武力を・・・表面には出さず、地域で信奉されている呪物を接収するという形での征服である。・・・そしていま一つは、武力を発動させた征服の形態であ<る>・・・。」(若井敏明 192頁)

 「日本<では、>・・・国家ができたことによって内的な平和が成立したとともに、・・・世界のほかの地域<とは違って、>・・・対外的な平和も・・・できあがってしまった・・・。」(長山 153頁)

 「朝鮮などでは都というのは城なんですね。それから以後、ずっと日本では自分たちの住む都市的な集落を頑丈な城壁で囲むという習慣がないですよね。・・・戦国時代も。・・・戦国以後でも武士のいるところは城壁で囲むけれど、一般の人たちが城壁の中に住むなんてことはないわけですからね。それが決定的にヨーロッパの歴史と違うところですね。」(長山 152頁)

(続く)