太田述正コラム#4134(2010.7.16)
<大東亜戦争たられば論>(2010.11.15公開)

1 始めに

 大東亜戦争開戦時に駐日英国大使をしていたクレイギーの、(開戦前における)1940年対英戦争開戦論をご紹介したことがあります(コラム#3968等)が、読者の宮里立士さんが、秦郁彦の、(開戦後における)1942年インパール作戦前倒し実施説が掲載されている懇談の抜き刷り(『昭和史の論点』文春新書(2002年3月)144〜147頁)を送ってくれたので、これをとりあげたいと思います。

2 大東亜戦争たられば論

秦:これは仮定論ですが、私は、日本軍はインドへ出るべきであったと考えてるんです。・・・
 この頃、北アフリカではロンメル将軍が大暴れしていますね。だから、日本としては、インドに出て、中東を通って、アレクサンドリアかエルサレムあたりでロンメルと手を結ぶ。これが戦略的にはいちばん妥当ではなかったかと思うんです。
 1944(昭和19)年になってインパール作戦をやりますが、遅すぎました。あれをやるのなら開戦直後ですよ。1942年のインドでは、イギリス支配は崩壊寸前でした。
 この頃、アウン・サン将軍が日本軍と一緒に36人の独立志士を引き連れビルマに入りますね。この36人が雪だるま式に増え、たちまち数万のビルマ軍になりました。
 それと同じ方式で、チャンドラ・ボースをドイツから連れてきておいて、逃げる英軍を追ってインドへなだれ込んでいたら、イギリスがインドから追い出された可能性は高いと思う。
 ガンジーも、日本と協力してイギリスを追い出そうと、ほぼ決心していたんです。ところが、ミッドウェー海戦の敗報を聞いて、ガンジーは方針を変えたんですよ。・・・
 アメリカを直接打倒する決め手がないから、まず、ドイツと協力してイギリスを打倒し、アメリカの継戦意思の喪失を待つという大戦略は、開戦直前に、大本営政府連絡会議で、戦争終結構想というかたちで決められているんです。
 その大目標に沿うためには、インドから中近東、北アフリカへ出て行き、ドイツと握手するというのが、いちばん妥当な戦略だったと思います。

坂本多加雄:そんなに戦線を延ばして大丈夫ですか?

秦:インド洋の制海権はほぼ完全に取っていましたから、大反乱状態のインドは素通りして直接ペルシャ湾に行けばいい。・・・
 <しかし、>ミッドウェー海戦でやられたあと、<今度は>・・・ガタルカナルに米軍が上陸してきたものだから、せっかくインド洋作戦をはじめようとしたのに、東のソロモン海へ向かうことになるんですね。

坂本:ポール・ケネディにも『1945年までの日本の戦略』という小論文があるんですが、そのなかに、日本の失敗はインドを攻略しなかったっことであると書いていますね。
・・・

半藤一利:・・・秦さんのいう大戦略は、大本営で総意として決めたものではないんです。あれは優秀な幕僚だった陸の石井秋穂と海の藤井茂が私的にまとめたといってもいいくらいの案なんです。

秦:しかし、連絡会議決定となったからには、国家意思としての決定ですよ。

半藤:それはそうなんですが、みんな重要だとは真面目に考えていないんです。

3 コメント

 秦が言及しているのは、開戦直前の1941年11月の大本営政府連絡会議が策定した「【太平洋戦争の終結構想】『速やかに極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立するとともに、更に積極的措置により蒋政権の屈服を促進し、独伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意思を喪失せしむるに勉む』
http://kuwappa.livedoor.biz/
のことです。
 当然のことながら、「英の屈服」とは、英本国の屈服を意味します。

 しかし、既に米国が参戦している状況下、アフリカ、中東経由で米国の兵員や資材の補給が得られる英印軍に、兵員の制約がある上補給線が延びきった日本軍が勝利できるとは思えませんし、そのような状況下でインド亜大陸において英印軍のインド人兵士による叛乱等が起きるはずもありません。
 いずれにせよ、日本軍がインド亜大陸を素通りして中東に向かうなど、夢物語もいいところです(注1)。

 (注1)日本軍がビルマ全土を占領できたのは1942年5月末だった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
が、その1ヶ月後の6月末には、早くも、ロンメルのドイツ・アフリカ軍団の進撃がエジプトのエルアラメインで食い止められるに至っていることを想起せよ。
 付言すれば、機動力も補給も兵員も不十分であったアフリカ軍団を常に攻勢に駆り立て、エジプトまで侵攻させたロンメルは無謀であり、遅かれ早かれ失敗することは避けられなかった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Erwin_Rommel

 それにそもそも、ありえないことながら仮にインドも中東も日本に奪われたとしても、チャーチルの英国が屈服し、戦争から離脱するなどということはおよそ考えられません。
 英国を屈服させるためには、英本国を占領しなければならないところ、ドイツが対ソ戦を開始するより以前に、既にそれは不可能になっていたのですから・・。

 念のため、日本にとってインド侵攻が軍事的な利益をもたらしたかどうかも一応考えておきましょう。
 日本は、ビルマの占領によって援蒋ルートを絶つという目的はおおむね達成できていた(日本語ウィキペディア上掲)わけですし、インドネシアの占領によって、石油の確保もできていた
http://www.wako.ac.jp/souken/tozai/file/tz0908.pdf
わけですから、インドに侵攻して仮に占領できたとしても、日本が軍事的に得るところはほとんどなかったと言わざるをえません。
 中東侵攻に至っては、それに仮に成功したとしても、例えば、中東の石油を日本に運ぶ長大な海上路を守る能力が日本にはなかったので軍事的には全く意味がありませんでした。

 すなわち、秦の指摘はおよそ実現不可能であったし、そのようなことを試みる軍事的意味もなかった、ということです。

 結局、日本は、クレイギーが指摘したように1940年中に対英「だけ」開戦をし、ビルマを占領して英国による援蒋ルートを絶つとともにマラヤも占領し、更にインド侵攻態勢をとることで、英国を追い詰め、有利な和平を実現することによって、豪州を無害化するとともに仏印や蘭印に対してにらみをきかせる形で日支事変完遂のための軍用資源を確保すべきだったのです。
 そして、この最後のチャンスを逃した日本は、1941年末の対米英開戦・・期限付き敗戦・・へと追い込まれて行くのです(注2)。

 (注2)坂本が言及した小論文で、ポール・ケネディが日本にいつの時点でのインド侵攻を勧めているのか、知りたいところだ。