太田述正コラム#4110(2010.7.4)
<原爆論争(その3)>(2010.11.10公開)

 それでは、肝腎のハセガワと麻田貞雄(コラム#4103)らとの論争です。

 「・・・第一の論点は、果たしてトルーマンとスターリンの間に競争があったかだ。
 トルーマンは、ソ連の参戦を歓迎し、できるだけ早くソ連が参戦するよう促したのだろうか。
 私への批判者は、トルーマンは、ソ連の参戦は米国にとって一定の便益があると信じ、それを追求し歓迎したと主張する。
 しかし、証拠の示すところによれば、トルーマンはソ連の参戦を「促進する」ことを間違いなく何もやっていない。
 彼のスターリンとの最初の会談が行われた<1945年>7月17日、トルーマンは、スターリンに参戦への同意を懇請しなかった。
 ハリー・ホプキンス(Harry Hopkins<。1890〜1946年。フランクリン・ローズベルト大統領に最も近い助言者の一人。トルーマン政権下ではソ連に派遣されていた
http://en.wikipedia.org/wiki/Harry_Hopkins (太田)
>)が<事前にスターリンに>日本に対する<、ソ連も一枚噛んだ>共同最後通牒を発出する件がポツダム会議の議題にのぼると請け合っていたにもかかわらず、トルーマンは、スターリンを意識的にこの最後通牒についての審議から除外し、最終文章からソ連へのいかなる言及も除去した。・・・
 スティムソン<米陸軍長官>は、7月23日に、・・・彼[トルーマン]は、<原爆>作戦の具体的日にちを聞くや否や、それ<(=ソ連)>を除外するよう提案した。・・・彼は、明らかにS-1[原爆]プロジェクトの情報に非常に依存していた」と記している。・・・
 私の批判者達によって提起された第二の論点は、原爆とソ連の対日参戦のどちらの要素がより日本の降伏という意思決定に決定的な影響を与えたかという論点だ。・・・
 ニューマン(<Robert P. >Newman<。ピッツバーグ大学名誉教授
http://www.amazon.com/Enola-History-Frontiers-Political-Communication/dp/0820470716 (太田)
>)は、「日本は、阿南<陸相>が長崎への原爆投下によって米国がもっと原爆を持っていることが証明されたと思うまでは最後まで戦おうとしていた。その時、つまりその時に至って初めて、阿南は天皇に屈し、降伏を受諾した」と主張する。
 <しかし、>彼は、広島への原爆投下と長崎への原爆投下の間に、ソ連が参戦したこと、そして、阿南の降伏への抵抗が8月14日の二回目の御前会議まで続いたことに言及することを怠っている。
 麻田は、8月6日の広島への原爆投下が、ただちに天皇、東郷<外相>、そして鈴木<首相>をしてポツダム宣言の諸条件の受諾へと導いたと強く主張する。
 しかし、この強い主張を裏付ける証拠は存在しない。
 麻田は、『終戦史録』を彼のテーゼを裏付ける証拠として引用するが、この資料集の編纂者達による見解は一次史料に由来するものではない。
 6首脳による会議は、ソ連が8月9日に参戦するまで開催されることすらなかった。
 この会議の真っ最中に長崎への原爆投下の報告がなされたが、このニュースにもかかわらず、この6首脳と内閣は2派に分かれたままであり続けた。
 8月7日に、東郷は、佐藤<尚武駐ソ大使>に緊急公電を送り、同大使にモロトフ<ソ連外相>に会って日本政府からのソ連による仲介要請に対する回答を得るよう促している。
 もし、仮に麻田が主張するように、日本が広島への原爆投下の直後に既にポツダム宣言の諸条件による降伏を受諾していたとすれば、この東郷の電信をどう説明したらよいのか。
 <また、>ニューマンによる、長崎への原爆投下の後、阿南が天皇に屈し降伏を受諾したとの強い主張に反し、バーンズ<米国務長官>の手記によれば阿南は再度抵抗を行っており、その抵抗は8月14日の御前会議まで続いたのだ。
 実際、8月9日に阿南が行ったことが判明したところの、米国が100を超える原爆を保有していて次の標的は東京かもしれないとの言明は、6首脳による議論や内閣での議論に大して影響を与えなかったのだ。・・・」
http://hnn.us/articles/24566.html
(7月2日アクセス。以下同じ)

 以上とほとんど同趣旨の、ハセガワとバートン・バーンスタイン(Barton Bernstein<。スタンフォード大学米国史教授
http://www.stanford.edu/dept/history/people/bernstein_barton.html (太田)
>)との論争にも、上記とできるだけ重ならない形で触れておきましょう。

 「・・・ポツダム宣言の最終文章をスティムソンによる原案と比べると、2つの重要な変化に気づく。
 第一は天皇制(constitutional monarchy)の維持を約束した一節であり、第二はソ連に関わるいくつかの節の除去でありこの宣言の表題からのソ連邦<という言葉>の除去だ。
 私は自分の本の中で、ソ連の参戦、無条件降伏、そして原爆投下の3つの要素はすべて、互いに密接に関連しあっていたと主張している。・・・
 バーンズ<国務長官>は、ポツダム宣言の文章をソ連代表団に送る前に報道機関に配布し、スターリンがトルーマンに対し、自分をポツダム宣言に署名させるべく呼んで欲しいと求めた時、トルーマンはこの要請を拒絶した。
 もとより、彼は「ソ連の参戦を阻止したり妨げたり」する行動はとらなかった。
 そうする手段を持っていなかったからだ。
 しかし、それ以外の、米国をソ連の参戦から切り離すあらゆることを彼はやった。
 スティムソンは、7月23日に、「[私は]トルーマンに、ハリソン(<Earl G. >Harrison<のことか?。1899〜1955年。当時は米国政府で難民問題を担当
http://en.wikipedia.org/wiki/Earl_G._Harrison (太田)
>)から得た[原爆に係る]作戦の時期に関する、より具体的な情報を伝達した。
 トルーマンは、彼の机の上に、警告メッセージ[ポツダム宣言]が用意されているところ、我々による最も最近の修正を受け入れている、と語り、<原爆投下>作戦の具体的日にちを聞いてただちにこの宣言を発表することを提案した、と語った。・・・
 スティムソンは、トルーマンに対し、マーシャル(<George >Marshall<。1880〜1959年。当時は陸軍参謀長
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Marshall (太田)
>)との会議から推論できこととして、「ロシア<の参戦>は不要である」ことを伝えた。
 スティムソンは、次いで、大統領に対し、「<原爆投下>諸作戦の日にち」に関するハリソンからの最も最近の報告を見せた。
 スティムソンは、「トルーマンは、それこそまさに彼が欲していたものであり、彼は非常にうれしく、これが彼に<ポツダム宣言なる>警告を発するきっかけ(cue)を与えた、と語った」と記した。・・・
 フォレスタル(<James >Forrestal<。1892〜1949年。当時海軍長官。後に初代国防長官
http://en.wikipedia.org/wiki/James_Forrestal (太田)
>)がバーンズに対し、トルーマンは、「自分のポツダムでの主要な目的はロシアを戦争に引き入れることだった」と言っていたと伝えたところ、バーンズは、「大統領の見解が変わった可能性が極めて高い」と返答した。・・・
 スターリンがポツダム宣言に署名すべく呼ばれることを欲することにこだわったことについてだが、自分の署名をポツダム最後通告にすることは、ソ連による日本との中立条約違反を正当化するためだった。・・・
 私は、スターリンは、このトルーマンの拒否によって促され、<対日>攻撃の期日を1〜2日繰り上げようとしたと信じている。
 8月8日(モスクワ時間)にモロトフは佐藤にソ連の<対日>宣戦布告を手交した。
 これには、ソ連政府は、自国政府が連合国の招きにより加わったところのポツダム宣言を日本が拒否したので対日参戦を行う決定を下したと記してあったが、これは、中立条約違反を正当化するためにスターリンがでっち上げたあからさまなウソだった。・・・
 私は、自分の本の中で、スティムソンとマーシャルが原爆投下が日本を降伏させるには十分であるとは信じていなかったことに同意すると主張しているが、ついでに言うと、それこそ、マーシャルが、ソ連の参戦が日本を降伏させる処方箋として不可欠な成分であると考えた根本的な理由なのだ。・・・
 バーンズの信頼された補佐官であったウォルター・ブラウン(Walter Brown)は、自分の日記の7月18日のところに、「JFB[バーンズ]は、この<ポツダム>会議の中からロシアの対日宣戦布告がもたらされることを希望していた。<しかし、>今は、彼は、米国と英国が日本に2週間以内に降伏しないと破壊に直面するとの共同声明を発出すべきだと考えている。(秘密兵器がその時までには準備がなされているだろう。)」と記した。
 更に、彼は7月24日のところに、「JFBは原爆投下の後に日本は降伏し、ロシアは殺戮をそれほど行うことはできないであろうことから、支那に大して諸要求を迫る立場には立たないだろう」と記した。
 フォレスタルは、「バーンズは、ロシア人達が参入して大連と旅順(Port Arthur)についてとりわけ言及するようになる前に日本問題にケリを付けることに非常にこだわっていると述べた」と記している。
 これらの記述は、トルーマンではなく、バーンズだけに言及しているではないか、と言う者がいるかもしれない。
 しかし、バーンズは、当時におけるトルーマンに最も近い助言者だったのだ。・・・」http://www.h-net.org/~diplo/roundtables/PDF/Hasegawa-reply-Bernstein.pdf
(7月4日アクセス)

(続く)