太田述正コラム#4333(2010.10.24)
<皆さんとディスカッション(続x993)>

<太田>(ツイッターより)

 (コラム#4072に関し)「「日本人」保護区での生活に引退してから、「日本人」は、自分自身を死を扱う戦士から繁栄した「エコノミックアニマル」、そして「「米国政府の要求を値切る」手強い政治家へと変え、「戦後米国の指導者達」の「愛玩」と「侮蔑」を得た。彼「<ら>」は、「米国崇拝教」の設立とその「吉田ドクトリン」<(=「日本特産の」幻覚剤)・・・の実施に「自ら積極的」役割を演じた。」

<chihilo>(同上)

≫利他主義は幸福の輪を広げていく。しかし、この「他」はあくまでも他の人間であって、神やイデオロギーといった超人間的なものであってはならない。超人間的なものへの自己犠牲的献身ほど憎むべきものはない。≪(コラム#4331。太田)

 何故ですか? 

<太田>(同上)

 問う前に自分の意見を。誰かさんで懲りたからねえ。

<chihilo>

http://ameblo.jp/chihilochihilo/entry-10597530181.html
http://ameblo.jp/chihilochihilo/entry-10597554951.html

 愛は惜しみなく奪いもしますが、やはり与えるものでもあると思います。
 「人間が生み出した医療、教育、芸術」から「超人間的なものへの自己犠牲的献身」をマイナスしたら、残るものもあるでしょうが、無くなるものもあるでしょう。
 神の名を借りて、自分の「拡大欲」を果たそうとする人間の汚さ、を仰ったわけでしょうか。
 そういうことなら、私もそう思います。

<太田>

 引用されたサイト、キミのサイトかもな。
 ボクのアングロサクソン・欧州比較論みたいな感じでイイ線行ってんじゃん。
 もっとも、あんまし本件とは関係なさそうだけど・・。

 さて、肝腎のハナシの方だけど、キミの言うとおりだ。
 クラシックのように、キリスト教への「自己犠牲的献身」の産物として始まった音楽がある
http://en.wikipedia.org/wiki/Classical_music
し、欧州の中世絵画なんてのはキリスト教への「自己犠牲的献身」の産物そのものと言ってもいい。
 また、形而上学や数学なんてのも、「超人間的なものへの自己犠牲的献身」の産物っちゅう側面がある。
 こういったものまで「憎むべきもの」であるとは言えないもんね。

 じゃあ、私の文章をどう直したらいいだろうか。
 最後の一節だけを直すとすると、「超人間的なものへの自己犠牲的献身は究極の利己主義的活動であると心得、それが他の人間の自由や権利を侵害しないように最大限の配慮をしなければならない」といったあたりでいかがかな? 

<ΔΔΙΙ>(「たった一人の反乱」より)

 「超人間的なものへの自己犠牲的献身ほど憎むべきものはない。」

 この意味についてツイッターで質問している人がいるが、要は↓みたいなことじゃない?
 (コラム#2328。質問への答えではないが)

 「・・・でも,僕は村人を援助しに行くんですよ.感謝されていいはずなのに,恨まれるなんて筋違いなんじゃ・・・」
 「感謝? もちろん感謝するとも.君のような援助者をつかわしてくれたアッラーにね.・・・君は言わばアッラーの道具にすぎん.それとも君は神にでもなったつもりかね?」
 ついでに太田さんに聞くが、↑みたいな考え方って、イスラム特有のもの?
 カトリックもこんな考え方をするの?日本人的には理解不能な考え方だ・・・。

<太田>

 そりゃ消印所沢クンによるコラムだけど、(その箇所の典拠として挙げられてる日本語文献にそんな趣旨のことが書いてあるのかも知らないが、)私の知ってるイスラム教徒で他人が善意でやってくれたことに感謝しない人なんて一人もいなかったぜ。
 でたらめもいいところだ。
 これは、自由意思論と関係するわけだが、キリスト教においてこそ、カルヴィニズムの決定論のように救済に関してだけは個々の人間はいかんともし難いと自由意思を否定する場合があるけど、イスラム教に至っては、宗派を問わず、まさに救済されるためにこそ善行を積む必要があるしている。つまり、イスラム教において、自由意思が否定されるケースはないのさ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Free_will_in_theology
 だから、イスラム教徒は、誰でも、宗教教理上も、他人が善意でやってくれたことに感謝して当然なんだ。だって、それは神がそれをその人にやらせたわけじゃないんだからね。

<ΔΙΙΔ>(「たった一人の反乱」より)

 中国:四川省徳陽市で反日デモ 2時間で解散
http://mainichi.jp/select/world/asia/news/20101024k0000m030048000c.html

 デモが続けば続くほど、日本国内の反中感情も高まってるってのを飲み屋の会話で感じてみたり。・・・

<bonkers_blunder>(ツイッターより)

 日本において、法人税減税は雇用を創出することにはつながらないのでしょうか?
 政官業癒着構造が血税で保護されたままなんて勘弁です…。

 Connecticut Could Create More Jobs
http://www.newsweek.com/2010/10/10/connecticut-s-corporate-tax-breaks-hinder-hiring.html

<太田>

 何度も申し上げていることですが、法人税の適正水準のあり方は、所得税に比べて、更にグローバルな観点から検討されるべきです。
 人間に比べて、企業(法人)の方が、より国籍変更について自由度が高いからです。

<bonkers_blunder>(ツイッターより)

 ネット上では地方分権を危惧する声も多いですが、日本独立のために地方分権はいかに実行されるべきでしょうか?

 本当は怖い「地方分権」
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20101023
 民主党@地方分権で都道府県廃止
http://plaza.rakuten.co.jp/mikawannko/diary/200809180002/

<太田>

 私の地方分権についての考え方は、かねてより、以下のようなものです。

一、日本が、中央が議院内閣制、地方が大統領制というのはおかしい。地方も「議院内閣制」にして、地方議会をスリム化した上で、地方の「行政府」の長は、地方議会が議員以外から行政専門家を任命する形にすべきだ。
二、地方にできるだけ中央の権限を移譲することが望ましい。そのことによって、地方間の競争が活発化し、地方が活性化する。また、そうすることによって、中央は広義の外交・安全保障に専念せざるをえなくなり、日本のガバナンスが回復・確立することが期待できる。 
 (基礎自治体を米国のように「三層構造」にする(現状維持)
http://en.wikipedia.org/wiki/County_seat
のか、英国(イギリス)のように「二層構造」にするのか、
http://en.wikipedia.org/wiki/Regions_of_England
については今後要検討。)

<宮里立士>

 <「『網野史学の越え方』を読んで」シリーズ(コラム#4322、4324)(未公開)を読みました。>

 <『網野史学の越え方』を提供することで、>また苦痛を強いる読書をさせてしまい失礼いたしました(苦笑)。
 ただ太田さんも指摘されるとおり、戦後歴史学の中で生きている方々の先端とはこういう感じです。
 渡辺京二氏が「戦後の日本史家で文体を持っているのは笠松宏至(中世史)のみ。あとは無味乾燥な文章か、悪文でしか書けない人々、というよりそれを「学問的良心」と勘違いしている人々」との趣旨の発言をしておりますが、かれらはそれで広く読者に訴える気も無くマニアックな世界に引き籠り、「密教的」に既得権を保持してきました。
 つまり「民主主義」を標榜しながら、全然「民主的」ではありません(これは別に戦後歴史学に限らず、戦後に「民主主義」を標榜した多くの団体や勢力にも言えますが)。
 ただ網野善彦は例外的に専門外の読者に受けいれられた「戦後歴史学者」です。
 かれの文章も優れているとは思いませんが、その「無縁」論は当時の硬直した中世像を覆し、しかもフランス・アナール学派との類似性という「世界性」が一般から多大な反響を呼びました(ただし最初、戦後歴史学界では大変に不評、とにかく硬直した人々ですから、外部のあまりの反響の大きさに自らの業界の危機を感じて取り込むようになりました)。
 これは網野も認めておりますが、かれの「無縁」論は戦前の皇国史観の代表格・平泉澄、実証学右派・清水三男の研究の継承です(人によっては「ただのウケウリ」という人もいますが……)。
 平泉はドイツ留学組、清水はマルクス転向組。かれらはそこで学んだ方法論を駆使して、網野「無縁」論のプロトタイプを概念化したのでしょう。
 そういう意味で、概念よりも叙述を基礎とする英米流歴史学と、やっぱり別の学問スタイルです。

 <さて、>日本の古典の読みにくさは、読んでもうまく概念として頭に入らない、その並列的叙述の積み重ねにあります(本居宣長の言う「成る成るに成る」という感じ)。
 これが時代を異にする「近代化」した日本人に理解が難しい最大の理由かと思います。
 戦前の日本史学は、いちおうこれを「方法論」を駆使して理解可能なものにしようと努力しました(当時の研究でいまでも貴重なものは多くあります)。
 戦後歴史学は、結局、それらを台無しにしただけだったように私は感じております。
 ただその反省もようやく起ってきているのも事実です。
 慈円の『愚管抄』はたしかに自分にも難しく、一読して理解できません。が、近い時代の江戸期の古典ならまじめに読もうと思えば、かれら(その著者である当時の為政者・知識人)が民主主義と縁なき人々ではなかったことがよく解ります。
 むしろ民の声を聞くのに熱心で、民生を重んじ、能力ある者を身分に拘わらず当時の枠組みの中ですが登用しようと勉めていたことが納得できます。

<太田>

 色々ご教示たまわり、ありがとうございました。


 それでは、記事の紹介です。本日は1件のみです。

 前にもとりあげたことがある話だが、それにつけても日本の「右」の日本国内における米軍の存在への鈍感さには呆れるほかない。↓

 ・・・though other factors matter, the primary driver of suicide terrorism is foreign occupation. ・・・
 What we should be doing is asking whether our military presence in Afghanistan and continued campaign of drone strikes in Pakistan are making us safer. Unfortunately, our research suggests just the opposite.・・・
http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-pape-fgn-occupation-20101022,0,2582415,print.story
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太田述正コラム#4334(2010.10.24)
<かつてドイツの時代があった(その1)>

→非公開