太田述正コラム#4258(2010.9.16)
<映画評論10:ラストキング・オブ・スコットランド(その2)>(2010.10.16公開)

 ウガンダの支配者になってから、アミンは、人権侵害、政治的抑圧、人種的迫害、司法的手続きを経ない殺人、縁故主義、腐敗、そしてひどい経済失政を重ねます。
 アミンによる支配の間に彼の体制によって殺された人の数は80,000人から500,000万人まで種々の推計がありますが、300,000万人前後が一番可能性が高いとされています。
 1972年には、その多くがインド亜大陸出身であるところのウガンダ居住のアジア系人全員・・多くは外国籍、とりわけ英国籍だが、ウガンダ国籍の者も含む・・80,000人を国外追放します。
 医師、弁護士、教師は対象外でしたが、この結果、ウガンダ経済は大きな打撃を受けます。
 もとより、こんなことをやらかしたのは言語道断ですが、彼等がウガンダに流入したのはインド亜大陸等もウガンダも大英帝国の植民地同士であったからであり、また、アミンを始めとするウガンダ原住民がこれらアジア系人を疎ましく思っていたのは、英国植民地当局が彼等をウガンダ(アフリカ)原住民に比べて優遇していたからだと思われます。
 それに、そもそも、ウガンダ(アフリカ)で手抜き統治をしていたとくれば、かつての宗主国英国に対して、アミンを始めとするウガンダ原住民が怒りを抱くに至っていたことが容易に想像できます。
 同じ年に、アミンが英国と国交断絶し、英国人所有の85の企業を国有化した背景は、以上のようなところにあったのだろうと思われます。
 時を同じくして、それまで武器の供給を受けたりして友好関係にあったイスラエルとの関係も悪化し、同国の軍事顧問達が追放されます。
 そして、アミンは、カダフィーのリビアやソ連、東独に支援を求めるのです。
 1973年には、米国が在ウガンダ米国大使館を閉鎖します。
 こんなアミンのウガンダが、国連人権委員会(当時)の委員国に任じられるという笑い話のようなことが起きます。

 1976年にはウガンダのエンテベ国際空港にパレスティナと西独のテロリストがハイジャックした旅客機が到来し、アミンがテロリスト寄りの姿勢を見せ、それに業を煮やしたイスラエルが人質救出作戦を敢行するという有名な事件が起きます。
 この作戦によって、6名のテロリストとウガンダ兵20人から45名がが死亡し、他方、105名の人質のうち3名がイスラエル軍による誤射で死亡し・・このほか、病院入院中であった人質1名が後にアミンの命令で殺害された・・、作戦の司令官であったネタニヤフ大佐(後のイスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフの兄)が死亡しました。
 また、イスラエル軍の輸送機に対する追尾をさせないために、11機のウガンダ軍のMiG-17戦闘機が駐機場で破壊されました。
 ウガンダ兵、というか、アミンに代表されるウガンダ軍士官の質の低さを如実に示すような結果であると言えるでしょう。
 (以上、この事件に関する事実関係は、以下による。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%99%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E5%A5%87%E8%A5%B2%E4%BD%9C%E6%88%A6 )

 翌1977年、アミンは、「終身大統領・元帥・ハジ(メッカ参りを終えたイスラム教徒)・博士(勝手にウガンダの大学に法学博士号を授与させたもの)・VC(=Victorious Cross。英国のVC= VC(Victoria Cross)のパクリ)・DSO(=Distinguished Service Order。英国が軍功をあげた士官に授与する勲章
http://en.wikipedia.org/wiki/Distinguished_Service_Order
)・MC(?)・アフリカ全般、とりわけウガンダにおける大英帝国の征服者(Conqueror of the British Empire in Africa in General and Uganda in Particular)、と自称するようになります(注3)。

 (注3)旧仏領の中央アフリカで、アミンも真っ青の「皇帝」を称したボカサ(Bokassa。1921年〜96年。大統領:1966〜76年、皇帝:1977〜79年)との比較が面白い。
 英国とは比較にならないくらい収奪的なフランスの植民地統治を受けた中央アフリカにおいて、ボカサは、名家に生まれ、高校程度までの教育を受け、1939年に自由フランス軍に一兵卒で入隊し、第二次世界大戦中に大尉にまで昇進、1969年にクーデターで全権を掌握した彼は、その後、腐敗したフランス政府との癒着関係の下で中央アフリアを専制的かつ野蛮に統治したが、1979年にフランス軍が介入して彼を失権させた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%99%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%82%AB%E3%82%B5
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean-B%C3%A9del_Bokassa

 アミンの人物像を物語ると同時に、彼の英国に対する愛憎が良く分かる称号ですね。
 この年、米タイム誌のある記事が、アミンを「殺人者にしてピエロ、気前の良いばかで下品なおどけ者、そしてもったいぶったやかましや」と描写したのはむべなるかなです。

 アミンの最後は急にやってきます。
 ウガンダ国内でアミンに反対する勢力が大きくなった一方で、彼が隣国タンザニアのウガンダとの国境地帯を併合しようとして、1978年にタンザニアとの間の戦争が起き、敗北したアミンは、1979年にリビア経由でサウディアラビアに亡命し、同国のジェッダで2003年に亡くなるのです。

3 終わりに

 この映画のタイトルの『ラストキング・オブ・スコットランド』は、スコットランド人のかつてのイギリスへの抵抗とアミンのイギリス(英国)への抵抗とをだぶらせたものです。(※)
 私は、アミンの統治によってウガンダで起きた悲劇の責任の大部分は、旧宗主国の英国が負わなければならない、と思っていますが、この映画の制作者の意図も、ひょっとして同じであるのかも・・。

(完)