太田述正コラム#4256(2010.9.15)
<映画評論11:鬼が来た!>(2010.10.15公開)

1 始めに

 『鬼が来た!』(原題:鬼子来了)(2000年)は中共映画であり、2000年のカンヌ国際映画祭にて審査員特別グランプリ・・パルムドールに次ぐ賞・・を受賞した作品です。(注1)
 監督・製作・脚本・主演は姜文(チアン・ウェン)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E3%81%8C%E6%9D%A5%E3%81%9F!
http://movie.goo.ne.jp/movies/p32745/comment.html

 (注1)ちなみに、日本の作品でパルムドールを受賞した作品は、衣笠貞之助監督のものが1回、黒澤明監督のものが1回、今村昌平監督のものが2回の計4回だが、中共の作品はまだ受賞していない。
 1993年に受賞した『さらば、わが愛/覇王別姫』は香港・中国の合作映画なので、厳しいようだが、中共の作品とは言えないだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%82%89%E3%81%B0%E3%80%81%E3%82%8F%E3%81%8C%E6%84%9B/%E8%A6%87%E7%8E%8B%E5%88%A5%E5%A7%AB
 他方、審査員特別グランプリについては、日本が小栗康平1回、河瀬直美1回の計2回で、中共が1994年の張芸謀(チャン・イーモウ)監督の『活きる』と『鬼が来た!』の計2回だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%8C%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD_%E5%AF%A9%E6%9F%BB%E5%93%A1%E7%89%B9%E5%88%A5%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA

 『鬼が来た!』をご覧になったことのない方は、必ず、その筋書き・・これもひどいネタバレだ・・
http://movie.goo.ne.jp/movies/p32745/story.html
を読んでから、以下を読んでください。

2 姜文の制作意図

 (1)重要なヒント

 上出の『活きる』は、「単純な共産主義批判の映画であることから免れている<が>・・・政治的理由により、本国では放映が禁止されていた。」こと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BB%E3%81%8D%E3%82%8B 
 そして『鬼が来た!』は、「カンヌ国際映画祭に出品する際、政府関連機関が制定した「電影管理条例(映画管理条例)」により、国務院広播電影電視行政部門の審査と批准がないと、国外にフィルムを持ち出せないことになっているが、批准を待たずしてカンヌへ持ち出してしまったために、中国国内の上映禁止と、DVDなどの映像出版物の販売禁止の処分を受けた。」こと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E3%81%8C%E6%9D%A5%E3%81%9F!
を頭に入れておいてください。

 (2)この映画を見た日本人の感想

  ア 性善でもあり性悪でもあるとの人間観を提示した映画であるとする者

C ・・・人間に対する考察です。・・・
 中国人も日本人も、優しさを持ち、狂気を持ち、敵対している立場でも友情を育むことも可能だし、集団の中でメンツや仲間意識を保つためにとんでもないことをしてしまう。人間って性善説も性悪説もありなんです。・・・

  イ 狂気と不条理を孕んでいるとの戦争観を提示した映画であるとする者

A・・・戦争という名の鬼が普通に生活を営む人間をめちゃくちゃにしてしまう。・・・
 この映画は戦争下の人間の普遍を描いていて、人間の狂気がもたらす破滅を明確にした。・・・
 ちょっと気になったのは、「狂気」の元凶になった、酒塚隊長の発言と<日本兵で準主人公の>花屋の行動が、よくわからなかった事です。その後の、<海軍の隊長が>なついてた<支那人の>子供を殺してしまう事とか、花屋を殴らなかった気の弱そうな青年<日本兵>が、恐ろしい顔で(正に鬼になった様に)村人を殺す事は、集団心理が引き起こした「説明のつかない狂気」という事で、納得出来ますが、なんで、隊長が「誰か余興として花屋を殺してくれませんか?」と言ったのかが、??です。戦争に負けたから?????後、なぜ花屋が、村人を殺してしまったのかも??です。隊長になれなれしく触ったから??????う〜ん、ちょっと私には、2人の行動の真意がわかりませんでした。・・・
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B ・・・あまりの不条理ぶりに納得できない!!って感じ。でも、そういう出来事が沢山積み重なっていった過去が戦争なんだとも思えて、本当、切なくなりました。・・・
http://www.tcp-ip.or.jp/~iwamatsu/bbs_log02/onigakita.html 上掲

  ウ アとイを総合した映画であるとする者

E ・・・人間には民族が違い言葉が通じなくても心を通わせあえるやさしさと、戦時下では鬼にもなりうる危うさの両面を併せ持っているということ、そして戦時下の狂気は現代<(=平時)>でも起こりうることを告発した映画である。・・・
 村民と日本軍との交流の宴が、一転して虐殺へと移ることに違和感を持つレビューが多かった。しかし私はそうは思わない。その場面の花屋は、酒塚が腐敗分子として糾弾し今にも処刑されようとしていたのである。そのさなかに村人の一人が酒塚に対して気安く振舞う。いったんは同じ農民であることで打ち解けた彼も、所詮は軍隊の規律に縛られた人間であることから抜け出していない。命の危機の切羽詰ったときに、それが彼が切れる引き金になっても不思議はないと思う。酒塚が敗戦を知っていたにもかかわらず、部下にも村人にも知らせず村を焼き討ちにしたことも、それほど不自然とは思わない。同様のことが当時なかったわけではないからだ。・・・
 戦争、そして軍隊という組織において、いかに人間の心に「鬼」がやってくるのかを知らしめた。これこそこの映画の言わんとしているところではないのか。・・・
http://our-hiking.seesaa.net/article/26139539.html

  エ 訳の分からない映画であるとする者

B 「私」が誰だったのか、結局最後までわからなかった自分。(すみません。分かるように作られてたのかもしれないのですが。もしくはそんなことはもはやどうでもよかったのか・・・)・・・
http://www.tcp-ip.or.jp/~iwamatsu/bbs_log02/onigakita.html 上掲
D ・・・花屋を連れてきた人が誰なのか最後まで謎のままです。一体何を象徴しているのか?平和に暮らしていた村に災いを運んできたものは何なのか?明確な答えが用意されていません。・・・
 共産党に発禁処分を受けている理由が良くわかりませんが、多分、皇軍に媚びて阿ってる情けないシナ人の姿が癇に障ったのでしょうか。ずーーーっと抗日闘争をやっていたと教えたいのではないでしょうか。一方日本兵は子供に優しかったりするし、これでは格好がつかない。・・・
http://adolf45d.client.jp/eigaoni.html

 (3)私の見解

 私に言わせれば、ア〜ウは、すべて的外れであり、エだけが核心を突きかけています。
 (もっとも、カンヌ国際映画祭の審査員達は、ウくらいの感想で、この映画に審査員特別グランプリを授与した可能性が大です。)

 まず、アについては、仮にそれだけだとすれば、この映画は余りに陳腐だということになってしまいます。
 というのは、映画に登場する日本の軍人は、ことごとく日本鬼子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%AC%BC%E5%AD%90
的に、また、支那人の村人は、ことごとく阿Q的に描かれており、このこと自体が陳腐である上、どちらも人間である以上は、誰でも善人の面と悪人の面とを併せ持っているし、また、当然のことながら、日本人とか支那人といった埒を超えて心を通わせることもありうることから、かかる場面が描かれていることもまた陳腐極まりない、と言えるからです。
 (人間とはこのようなものである以上、彼等を客観的に描写すれば、それは滑稽に見えてきてしまう、というのが、姜文がこの映画の大部分を喜劇調で進行させた理由です。)
 姜文は、あえてこのように日本人の軍人、及び支那人の村人達を描くことによって、この映画のタイトルの『鬼子来了』の、そもそも「日本」抜きの「鬼子」が、日本の軍人を指しているのではないことを察知させようとしているのです。

 次に、イについてですが、大量虐殺の狂気が平和な帝国陸軍、海軍、支那人達の交流の場で発生すること、帝国陸軍の酒塚隊長が終戦を知っていたにもかかわらず・・これは姜文の重要なメッセージです・・この狂気の中心となること、映画の舞台の村に駐屯していた帝国海軍の部隊は、ほとんど戦闘行為を行っていなかったようであること、とりわけ、映画に登場する隊は軍楽隊であり、直接戦闘行為に従事しない隊である(注2)と考えられるにもかかわらず、その隊長がこの狂気に伝染すること、そして、この映画の最終場面近くで、主人公たるこの村民の生き残りの支那人が日本兵数人を虐殺したり、最終場面で、この主人公本人が花屋によって虐殺されたりするのは、終戦後であって、姜文が、(避雷針目的で意図的に誤解させようとしているきらいはあるものの、)「戦争」の不条理や狂気を描こうとしたわけではないことが推察できることから、疑問符がつきます。

 (注2)「<英海軍とは異なり、>日本海軍にあっては、戦闘中に軍楽が吹奏されることはなかった。・・・戦闘中は軍楽隊員は戦闘のメンバーに組みこまれた。・・・<戦艦三笠の軍楽隊の場合、>いざ戦闘の場合、12インチ主砲の砲塔の伝令で、無線助手を兼ねることになっていたし、他の隊員は信号助手として艦橋に配置される予定になっていたり、あるいは負傷者運搬員になるべく任務づけられていた。」
http://kinmirai.hp.infoseek.co.jp/1108-2-1.htm

 ウ(アとイの総合)については、ア、イそれぞれに対する上記批判があてはまります。

 では、よりもっともらしい制作意図は何なのでしょうか。

 それを解くカギは、この映画で描かれる狂気と不条理の原因にあります。
 それは、唯一顔の見えない登場人物たる「私」です。
 「私」が花屋と支那人通訳の2人を主人公のところに、脅して預けてさえ行かなかったら、その後の一切の狂気、不条理が生じなかったはずだからです。
 それでは、この「私」とは、一体何を指しているのでしょうか。
 てがかりは、顔の見える、その他の登場人物にあります。
 日本の軍人と支那人の村民・・支那人たる通訳も、その阿Q性等において彼等に準じる存在と見てよい・・については既に言及しましたが、映画の終わり近くになって、中国国民党軍の軍人達が登場します。その司令官は、常に米英(?)とおぼしき一人ずつの連合国軍人とともに行動します。
 しかし、当然登場してしかるべきものが登場していませんよね。
 そう、それは、中国共産党の人間・・八路軍の人間と言ってもよい・・です。
 つまり、消去法で行くと、「私」は八路軍の人間である、ということにならざるをえないのです。

 実は、八路軍の存在がこの映画の中で示唆されています。
 酒塚隊長の部隊は、戦闘でかなりの犠牲者を出して、件の村にやってきます。(戻ってきたのかもしれません。)
 この部隊が戦闘を行った相手は八路軍であった可能性が高いのです。
 なぜなら、

 「八路軍は主に日本陸軍占領地域の後方攪乱とゲリラ戦を担当した。・・・
国民党軍(重慶政府軍)は・・・、兵力温存を図り日本軍との正面決戦を避ける傾向があ<った>。」、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%B7%AF%E8%BB%8D

からです。

 また、村民達が「私」をあれだけ恐れたのは、八路軍が、

 「占領地で、ある程度の土地や家畜を持つ自作農を「富農」と認定し、人民裁判にかけ、処刑した。これは八路軍の力を見せつけて住民に恐怖心を抱かせるものであ<った。>」(ウィキペディア上掲)

ことを考えれば、彼等が「私」を八路軍ではないかと慮っていたからである、とすれば合点がいくのです。

 更に、酒塚隊長が、この村、とりわけ主人公が「私」勢力のシンパではないかとの疑心暗鬼にかられ、それが村民虐殺につながって行くのも、「私」勢力が八路軍だとすれば、まんざら理解できない話ではない、ということにもなります。

 そうだとすると、姜文は、八路軍、すなわち中国共産党こそ、日本や支那に狂気と不条理とをもたらした元凶である、(更にあえて言えば、日本が支那から手を引いた戦後においても、中国共産党は、大躍進政策や文化大革命といった形で、支那に狂気と不条理とをもたらした)と訴えている、ということにならざるをえないのです。

 以上を踏まえて、『活きる』と『鬼が来た!』への中共当局の措置を考えてみましょう。
 青春映画である前者に対してさえ、文革の時代を舞台背景として設定したというだけで、政治的理由から国内上映禁止にした当局が、中国共産党批判を行った後者に対しては、単に手続き的理由から国内上映禁止にするのにとどめたのは一体どうしてなのでしょうか。
 ここから先は私の全くの推測ですが、政治的理由を掲げたら、事柄の性格から言って姜文を厳しく処罰しなければならず、それでは余りに惜しい才能をつぶしてしまうことになると判断し、かつ、この映画が中国共産党批判である、とは諸外国においては容易に気づかれない可能性が高い、と高を括ったからではないか、そして、姜文自身は、そのような当局の反応を予想し読み切っていたのではないか、と思うのです。

3 終わりに

 『レッドクリフ』の荒唐無稽さ(コラム#4190、4192、4194)は、中共には表現の自由が存在せず、とりわけ歴史を踏まえた映画を制作する場合には細心の注意を要することから、呉宇森(ジョン・ウー)監督が、三国志演義やその京劇の枠外に出ないようにした結果である可能性が高いとすれば、やはり歴史を踏まえた映画である『鬼が来た!』の荒唐無稽さは、諸外国の映画評論家や観客に自分の制作意図を気づかせないよう、かつ、当局に自分を厳しく処罰させないためのものである可能性が高い、ということです。
 改めて、こんなやっかいな隣国たる中共にうとましさと憐憫の情を覚えるとともに、そのような国で国際的にも高く評価される映画をつくることができる中共の映画監督達の能力は大変なものだと思いますね。