太田述正コラム#4250(2010.9.12)
<映画評論8:アポカリプト(その2)>(2010.10.12公開)

(補注)素性の定かではない典拠に拠ったと記したが、マヤ文明の衰退後、勃興したアステカ文明では、マヤ以上に人間の生け贄が重視された文明であり、頻繁に人間の生け贄を伴う行事が行われ、しかも、各行事ごとに10,000人から80,000人もの生け贄が今日されたhttp://en.wikipedia.org/wiki/Human_sacrifice
ところ、その生け贄が供される様子を描写するウィキペディアの記述
http://en.wikipedia.org/wiki/Human_sacrifice_in_Aztec_culture (★)
と類似しており、それなりに信頼できる、と判断される。

 (2)非キリスト教文明の野蛮さを描いている

 この映画のタイトルの「アポカリプト」というのは、ギリシャ語で「開示する」を意味する言葉ですが、英語圏の観客は、この言葉の名詞形である「アポカリプス(apocalypse)」、すなわち黙示録
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2 (☆)
の持つ、破壊的イメージを思い描くはずです。(※)

 私に言わせれば、黙示録は、「「<キリスト教なる>善と悪の対立」および「善の最終的な勝利」という普遍的テーマ」を扱ったものと解することができる(☆)ところ、ギブソンは、この映画で、マヤ文明を、非キリスト教文明の代表として取り上げ、この悪にキリスト教文明なる善がとって代わることが人類史の必然的な歩みであることを示唆しているのです。

 少し先走ってしまいましたが、どうしてそう言えるかと言うと、

 「・・・この映画は、ウィル・デュラント(Will Durant<=William James Durant。1885〜1981年。米国の著述家・歴史家・哲学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Will_Durant (太田)
>)の碑文・・「偉大な文明は外からの征服によってではなく、内からそれ自身によって破壊されるのだ」・・の引用から始まる。・・・
 このことを指摘しつつ、・・・マヤ文明はかくも悪であったが故に「この文明…は死に至るのが当然だった」と<この映画は>示唆している、と記した者もいる。・・・
 <それに対し、>メル・ギブソン自身は、『アポカリプト』の舞台をマヤに設定したのは、「諸文明と何がそれらを堀崩すか」を探索する、より普遍的な物語の「背景に過ぎない」と言っている。・・・
 <しかし、>「環境破壊」・・・、「恒常的戦争」、「過剰人口」、そして「干魃」が偉大な帝国の滅亡の主要原因である・・・」(※)

にもかかわらず、これらについては、この映画の中でほとんど描かれず、もっぱら人間の生け贄の場面ばかりに焦点があてられているからです。

 なお、この映画の最後に、スペイン船とおぼしき船から、神父とおぼしき人物を含む一団が上陸してくる場面が出てくる(※)ことは暗示的です。

3 批判

 しかし、このような制作者の単純明解かもしれないけれど、単細胞的な物の見方には、私は、不快感を覚えざるをえません。

 以下、比較的よく分かっているアステカ文明のケースを援用しつつ、その理由を申し述べます。

 「・・・土地、作物、月、星々、人々等あらゆるものは、自らを生け贄とした神々の、切り取られ、ないしは埋められたところの、身体、指、血液、または頭からわき出たものだ。・・・
 人間は・・・、「罪の償いのための苦行を通じて、死から蘇らされるに値すると認められ、蘇らされた」ものであるとされる。・・・
 人間の生け贄は、こういうわけで、アステカの人々が、彼等が神々に負っている負債を返そうとするにあたって、あらゆる数多の供物のうち、最も高い水準のものなのだ。・・・
 血は、メソアメリカ(Mesoamerica<。メキシコ中部からホンデュラスやニカラグアに至る地域
http://en.wikipedia.org/wiki/Mesoamerica
>)の諸文化において中心的な場所を占めていた。
 ・・・ケツアルコアトル(Quetzalcoatl)神の創造神話の一つに、彼の生殖器の傷から採取された血を、彼が提供したというものがある。・・・
 アステカの人々にとって、心臓・・・は、個性の座であるとともに太陽の熱・・・の断片でもある。・・・
 アステカ文明における戦争は、生け贄にするための人間たる犠牲者を生きながら捕まえることが目的だった。
 だから、戦術も、敵を殺すというより、もっぱら負傷させるように仕組まれていた。・・・
 アステカの犠牲者達が自分達の運命に恐れおののいていたとの一般に流布している観念とは正反対に、<スペイン人>征服者達・・・によって解放された者は、「釈放の申し出を怒りを込めて拒否し、生け贄に供されるよう要求した。・・・
 生け贄に係る様々な儀式のこれみよがしの性格からして、人間の生け贄は、重要な政治的機能を果たしていたことがうかがえる。・・・
 アステカの人々は、貢納するところの臣従部族達からなる巨大な帝国をコントロールした。
 アステカの原住民の人口は、彼等がコントロールしていた地域の人口と比較すると非常に小さなものでしかなかった。
 <だから、>アステカの人々は脆弱だった。
 彼等の臣従部族達が同盟をつくって叛乱を起こせば、多勢に無勢で簡単にやられてしまっただろう。
 臣従者達の間でいざこざの種を蒔くべく、アステカの人々は毎年の貢納の一部として人間の犠牲者達を要求した。
 <その結果、>臣従者達は、捕虜を捕まえるために相互に襲撃し合った。
 これが、臣従者達の間で敵意を醸成し、アステカの政治的な中央統治を強化した。
 このような政治的コントロールの手法は革新的であり、恐らくは人類の歴史の中でユニークなものだろう。・・・」(★)
 (以上、典拠はすべて9月11日アクセス。)

 要するに、マヤやアステカにおける人間を生け贄に供する慣習は、我々の感覚からすれば、野蛮そのものですが、これは、その宗教システム及び統治システムの重要な一環であり、臣従部族や生け贄の犠牲者達の積極的・消極的関与の下で、本格的な戦争の勃発・恒常化の防止、過剰人口の間引き、ひいては環境破壊の予防等に資していたところの、極めて目的合理的なものであったということです。
 このシステムを、つい最近までの、欧州等の、キリスト教やキリスト教の変形たるイデオロギーを掲げたところの、本格的な戦争の恒常化、帝国主義を通じての原住民の積極的・消極的大虐殺や地球規模での環境破壊、というシステムと比較した場合、どちらの方がより目的合理的であったか分かったものではありませんし、欧州等のシステムの方がより野蛮であったとすら言えるのかもしれません。

4 終わりに

 以上、『アポカリプト』批判を展開しましたが、アクション映画であると割り切れば、この映画、なかなか良くできている、ということを最後に付言しておきましょう。

(完)