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太田述正コラム#4064(2010.6.11)
<ジェームス・ワットをめぐって(その2)>(2010.10.8公開)

3 産業「革命」

 「・・・ワット<の発明は、>・・・それまでの、数学者のロバート・フック(Robert Hooke<。1635〜1703年。イギリスの自然哲学者・建築家・博学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Hooke (太田)
>)、軍事エンジニアのトーマス・セイヴァリー(Thomas Savery<。1650?〜1715年。イギリスの発明家
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Savery (太田)
>)、そしてもちろん<蒸気機関のもともとの発明者たる>ニューコメン(<Thomas >Newcomen<。1664〜1729年。イギリスの鉄器商人
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Newcomen
>)その人といった、10いくつもの画期的前進<の賜であるとともに、>冶金学から熱力学に至る何百ものありとあらゆるもののそれまでの進歩によって初めて可能となったのだ。・・・」(D)

 「・・・<産業革命という言葉が初めて使われたのは、>経済史家のアーノルド・トインビー(Arnold Toynbee<。1852〜83年。日本で有名な同名の人物は、甥
http://en.wikipedia.org/wiki/Arnold_Toynbee (太田)
>)の、彼の死後の1884年に出版された論文集<の中でだった。>・・・
 この言葉には若干の問題があるかもしれない。
 というのは、イギリスは蒸気機関を容易に採用しようとはしなかったからだ。
 それは、<家具店の>イケア(Ikea)に<それを見に>群衆が押し寄せるような、ウィリアム・ローゼンが正しくも呼んだところの、この時期の「テーマ音楽的(signature)な気の利いた小物(gadget)」だったのだ。
 とはいえ、この極めて枢軸的な世紀の帰結については誰も疑うわけにはいかない。
 ローゼンが記しているように、人間の生産性は、以前の農業革命の時以来の7,000年の間にほとんど変わってはいなかった。
 食糧消費、寿命、そして旅の距離は、シェークスピアの時の平均的イギリス人にとっては、平均的なバビロニア人の羊飼にとってそうであったところのものと、大差はなかった。
 <前者のイギリス人>の世界は、手織りの(homespun)衣料と地域の食糧と、一日に彼がどれだけ歩けるかによって定義された水平線から成っていた。
 羅針盤、印刷機、そして火薬が、どの帝国や宗教よりも歴史を変えた<ことは確かだ>。
 しかし、これらの発展によってもたらされた余剰は、増加する人口によってすぐに飲み込まれてしまっていた。
 18世紀中の何波にもわたる発明は、人類をこの自分の尾っぽを追っかけるような経済から解放したのだ。
 1500年から1820年の間に、英国の人口は4倍に増えたが、一人当たりGDPもまた、2.5倍に増えた。
 英国は、獲得し消費する新しい強力な方法について先鞭を付けたが、それは十分な財政的かつ機械的な資源を有する他の諸国によってすぐにマネをされた。・・・」(A)
 
 「・・・1829年に姿を現した<スティーブンソン(George Stephenson。1781〜1848年。イギリスの土木工学者・機械工学者
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Stephenson (太田)
)による>ロケット号は、世界最初の成功した蒸気機関車であり、当時世界の工業首都であったマンチェスターとリヴァプールとを結んだ。
 マンチェスターをその地域に押し上げた工場群は、それら自身、ジェームス・ワットといったそれまでの革新家達による蒸気機関によって動力を得ていた。
 これらの蒸気機関は、今度は、それまでの世代のエンジニア達が作りだしたポンプと排水設備によって初めて存立することができたところの鉱山から掘り出された石炭を燃料としていた。
 ロケット号は鉄道の時代の出発点であったが、それは同時に、産業革命を引き起こしたたくさんの複雑な要素の最高潮と見ることができる。
 ローゼンは、「過去の1万年間において、全人類を真に変容させたことが二回だけ起こった」と主張する。
 第一回目は、狩猟採集者から農民への遷移であり、これは、社会がより複雑なものへと発展することを可能にした。
 第二回目は、産業革命であり、人類は「マルサスの罠」から逃れる方法を発見した。
 それにより、諸国において、富の成長と人口の増加との均衡がとれるようになった。
 産業革命は、・・・一人当たりの富のみならず、寿命や識字率や技能の水準においても変化をもたらしたのだ。・・・」(C)

→ローゼンのイギリス観は、一時代前のステレオタイプです。
 既に太田コラムの昔からの読者ならご存じのことばかりですが、以下をお読み下さい。
 イギリスが、ローマ帝国の版図であった頃、同帝国内で飛び抜けて豊かな地域であったことからすれば、イギリスは、一貫して世界中で飛び抜けて豊かな地域であった可能性が高いと思われます。
 そして、そのイギリスは、少なくともアングロサクソン時代には、個人主義/資本主義社会であったわけであり、そのことと、一貫してマルサスの罠から解放されていた・・すなわち、余剰があっても人口抑制に汲汲とし続けた・・ことによって、豊かであり続けたのです。
 しかも、産業革命はイギリスではなかったと言うべきなのです。
 もちろん、産業化はありました。
 すなわち、世界最初の産業化がイギリスで起こったわけですが、それは、水力を工場の動力として用いることから始まり、蒸気機関の発明以降は、それが蒸気機関によってゆっくりと代替されて行く、という形で数世紀にわたって進行するのです。
 この産業化を、(イギリスの分身という側面のある米国はやや様相を異にしますが、)欧州諸国や日本等の諸国は、イギリス化(アングロサクソン化)の一環として、イギリスから継受する形で産業化を「革命的に」断行することになります。
 そういう意味では、イギリスないし英国(及び米国)以外の国や社会においては、確かに産業革命はあった、ということになるでしょう。
 (いちいち、コラム番号は付しませんでした。)(太田)

(続く)

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