太田述正コラム#4030(2010.5.25)
<米人種主義的帝国主義と米西戦争(その7)>

 他の話題も時々入れたいのですが、何せ、刻々動く大ニュースもなければ、面白い本の書評も出ないということで、本日も同じ話題におつきあい願います。(太田)
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 「3月の初め、下院が大声で5,000万ドルの国防費を通すのをリードは止めることができなかった。・・・
 上院<も、>「何の議論もなしに」この5,000万ドルの防衛支出を通した・・・」(PP233)
 「大統領は、議会に軍事介入の権限を与えるように求めたが、宣戦布告は求めなかった。
 ・・・彼は、キューバの独立も叛乱政府承認も求めなかった。
 (実際問題として、承認すべき叛乱政府など存在していなかったのであり、このキューバの地は、飢えた叛乱兵士達によって町々は鹵獲と略奪の対象となり、大変な苦しみに苛まれていたのだ。
 「<ハースト系新聞は、>マッキンレーの演説は、・・・「米国民をひどくがっかりさせた。武器をとれとの呼びかけどころか、退却の説教のように聞こえた」と<書いた。>」(PP236)

 「大部分の米国人は、カトリック教徒たる、半分は黒人の<キューバの>人々を<米国に>吸収することは欲していなかった。・・・
 <結局、>下院と上院は・・・キューバの独立を呼びかける合同決議を通した。
 マッキンレー大統領は、かかる疾風に頬を晒しつつ、それに署名した。」(PP240〜241)

→19世紀から20世紀初頭にかけての米国人は、好戦的であったそのローズベルトやハースト等の多数も、非好戦的であったそのマッキンレーやリード等の少数も、いずれも、大方は人種主義者であったということが分かりますね。(太田)

 「4月21日、・・・スペインは米国との外交関係を断絶させた・・・」(PP241)

 「4月23日、マッキンレー大統領は、28,000人の正規陸軍を膨らませるために125,000人の志願兵の呼びかけを行った。
 すると、100万人の志願兵がこの呼びかけに応えた。
 そのうちの一人がローズベルトだった。」(PP243)

→「好戦的な多数」を裏付ける数字です。
 ちなみに、米国の1900年の人口は、7,600万人でした。
http://www.u-s-history.com/pages/h980.html

 「<ローズベルトがこの頃友人達に書いた手紙の一つは次の通り。>

 私は自分に全く私心がないことを保証できる。
 私は向こう見ずの精神や気まぐれ、あるいは純粋に私自身の利己的愉楽から行動しているのではない。
 もとより、私とて他の誰とも一緒で、いつだって撃たれたくなんてない。
 黄熱病で死ぬことなどもっと嫌だ。
 私は自分の妻と子供達が大好きすぎるし、人生の良いことを余りにも享受しており、彼等を失ったり私の家族から離れることに伴う障害を軽くは考えていない。
 しかし、最初に述べた<(=志願)>ことは、私の考えでは、私の義務なのだ。・・・

 <また、彼は、別の手紙で以下のようにも書いている。>

 私のような男に対して最もよく投げかけられる痛烈な皮肉は、我々が肘掛けいすに座った居間における戦闘的愛国者達であって、そうした方が良いということが他人によってなされることを、ただただ欲している、というものだ。」(PP244〜245)

 「2月25日、デューイ准将は海軍長官のロングから電報を受け取った。
 
 戦争が米国とスペインの間で開始された。ただちにフィリピン諸島へと向かえ。
 作戦を、とりわけスペイン艦隊に対して発動せよ。
 そして、敵艦艇を捕獲するか破壊せよ。
 最大限の努力を傾注せよ。」(PP254)

 「5月1日・・・暁の灰色の光の中に、<オリンピア号上の>デューイは、<マニラ湾の>敵艦隊を目にすることができた。
 スペインの誇りでもって、彼等は帝国の金と赤の戦闘旗を掲げていたが、スペインの敗北主義でもって、彼等は浅い水面で沈むために岸辺に近く碇を打っていた。」(PP256)

 「一方的な戦闘は、昼飯に丁度間に合うような時間に終わった。
 7隻のスペインの船は燃えているか沈み、4,000を超える乗員が死んだ。
 最後の満悦感でもって、オリンピア搭乗の海兵隊の軍楽隊が流行の「ラ・パロマ(La Paloma)」(注8)等のスペインの歌を演奏した。
 この嘲りの音色を水面越しに聴いた、岸辺の砲列を指揮していたスペイン軍の大佐は、拳銃自殺をした。」(PP257)

 (注8)イグレシアス(JULIO IGLESIAS)歌唱でどうぞ。↓
http://www.youtube.com/watch?v=_Y5ikAyE64Y
 
(続く)