太田述正コラム#4170(2010.8.3)
<『憲法と歴史学』を読んで(その2)>(2010.9.3公開)

 私は、北畠親房(1293〜1354年)は、天皇直接統治(親政)は控えるべきであるとしつつ、天皇は、誰に統治させるかについて慎重を期さなければならず、人望があり善政を行い得る者、或いは人望があり現に善政を行っている者を選ぶべきである、と主張したと考えます。
 つまり、彼は、君臨すれども統治しない、という近代君主制・・象徴君主制と言い換えても良い・・を世界的にも早く、既に14世紀の時点で唱えていた、ということになるわけですが、これは新しい説を唱えたというよりは、平安時代以降の天皇制の伝統に戻れと唱えた、と解したいところです。

 さて、時代を下って、松平定信(1759〜1829年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
については、私は、余りよい印象を持っていませんでしたし、『楽翁公遺書』という彼の著書の存在も知りませんでしたが、彼は、その中で

 「天命不寧、天の命する所則民の帰する所也、民の帰する所は徳器の備る人なり…民の訴獄謳歌これに帰するを以て天の与ふるを明らかにす、夫れ一人一族一郷邑の善悪願欲或は私にあるも多けれど、億兆の人の皆善とする処は一箇の私心にあらざる故に、皆天下の公理也、天下の公理は則天の心なり、人君一箇の私にかかはらずして、公理を以て心とするにあらざれは、天命を治むとはいひ難し、(松平定信『楽翁公遺書』
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898746 以下(太田)
上、八尾書店、1893年、9ページ)」(94頁)

と記しているのですね。
 このくだりに小路田が注目したことには敬意を表したいと思います。
 小路田は、下掲のようにこのくだりを「翻訳」しています。

 「一人一人の人間の意思、「一族一郷一邑」の意思それ自体は、いたって私利私欲に満ちた、到底理性的とは言い難いものである。しかしその一人一人の人間や「一族一郷一邑」の意思が集まって作り出す「億兆」の意思は、常に正しく、「私心」なき「天下の公理」としかいいようのないものである。」(94頁)

 で、私がそれに続く最後のセンテンスを「翻訳」すれば、

 「治世者は私心ではなく、天下の公理、すなわち世論、を踏まえて治世を行わなければならない。」

といったところでしょうか。
 ただ、そこに付いている小路田による解説は、やや筆がすべっている感が否めません。

 「国民を単なる統治対象としてしか捉えなかった徂徠学的発想を克服し、世論をもって国家統治の最高規範にまで押し上げた松平定信の寛政改革こそ、まさにこの国における近代民主主義形成の起点に位置する政治改革だった。」(95頁)

 なぜならば、第一に、小路田が荻生徂徠(1666〜1728年)をまるで全面否定しているかのように読めてしまうからです。
 私は、確かに、『政談』(下出)の中で荻生徂徠は貨幣経済嫌いの保守反動的な主張をしていた
http://blogs.yahoo.co.jp/takaji8/36163194.html
けれど、他方で、彼の功績、

 「朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学(蘐園学派)を確立した。また、・・・徳川吉宗・・・に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示<した>。これは、日本思想史の流れのなかで政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世思想(経世論)が本格的に生まれてくる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0

については、それなりに評価してしかるべきであると思うのです。

 そして第二に、小路田は寛政の改革を高く評価しているけれど、私は、それはおかしいと思うからです。というのも、同改革は、

 「<寛政>の改革<で>は・・・人足寄場の設置など新規の政策も多く試みられた<ものの、>・・・田沼が推進した重商主義(商業重視)政策を否定しており、保守勢力のクーデター的性格を持ち、蘭学の否定や身分制度の徹底も並行して行われた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9

という、上出の荻生徂徠の保守反動的な主張を実現に移したような代物であった上、

 「極端な倹約・思想統制令は、庶民や大奥から嫌われ」(同上)

るという、反世論的、反民主主義的なものであったからです。
 皮肉な見方をすれば、先ほど紹介した、定信の引退後の民主主義的言辞は、自分の行った政策への反省の弁だったのかもしれません。

 いずれにせよ、重要なことは、松平定信のような、将軍の孫で老中首座・将軍輔佐まで務めた人物が、北畠親房言うところの天皇に代わって治世を行う者が、「人望」集め、「善政」を行うためには、世論を踏まえた治世を行う必要がある、と唱えたことです。
 これは、北畠の政治思想を更に一歩進めたものであり、江戸時代に、武士の世界以外には民主主義が普及していた(コラム#1607)ことに加えて定信が晩年唱えたこのような政治思想が、恐らくは武士等の間で広く普及するに至っていたであろうからこそ、明治維新にあたって、民主主義を唱えた五箇条のご誓文(コラム#1608、2973、2983、2998、3001、3666、3742、3903)がごく自然に制定されるところとなり、これが大正デモクラシーへ道を開いた、と解することができそうです。

(続く)