太田述正コラム#3976(2010.4.28)
<米国の世紀末前後(続々)(その3)>(2010.8.30公開)

3 トーマスの本を対象とした書評より

 「・・・ローズベルトは、戦うこと、撃たれること、負傷すること、そして勲章をもらうことに熱心なこと熱心なこと、それはほとんどキチガイに近かったと言ってもよい。・・・
 米軍の司令官のウィリアム・R・シャフター(William R. Shafter<。1835〜1906年
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Rufus_Shafter (太田)
>)の行状と指導力の欠如はひどいものだった。
 米艦艇メイン(Maine)号を沈没させた爆発の原因は、極めて興味深い取り扱われ方をしており、私は他<の本等>での<本件の>取り扱われ方も知っているが、この本ではとてもうまく取り扱われている。
 とりわけ暑くて湿気の多い状況下で、船倉で石炭が自然発火することがあることは、当時よく知られていた。
 メイン号の石炭倉は、弾薬庫と鋼鉄製の仕切り一枚で仕切られているだけだった。
 仮に石炭倉で出火すれば、仕切りはすぐに真っ赤に熱せられたはずだ。・・・
 1815年以来、<本土に>侵攻を受けたことがないことが、米国人が、欧州人よりも戦争を政策手段として手頃なものだと見ることを可能にさせるのだ。・・・
 <果たして>米国人達は、キューバとフィリピンが欲しがったのだろうか
 その反対に、トーマス氏の本は、米国政府と議会がこの二つの孤児<的領土>について、一体どうしたらよいか分からずに途方に暮れたことを示している。・・・」(C)
 
 「・・・<この本の中に登場する主要人物のうちの>2人はハト派だ。
 下院議長のトーマス・リード(Thomas Reed<。1839〜1902年
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Brackett_Reed (太田)
>)は、米国が外国のことに首を突っ込まないことを望んでいた。
 小説家のヘンリーの兄弟たる哲学者のウィリアム・ジェームス(William James<。1842〜1910年。心理学者・哲学者。そのプラグマティズム哲学で有名
http://en.wikipedia.org/wiki/William_James
>)は「戦争の道徳的等価物」として、他国との戦いではなく、無知、貧困と疾病との戦いを促した。
 トーマスにとってのタカ派は、<ハト派>より、明るく羽づくろいした形で描かれる。
 将来の大統領たるセオドル・ローズベルトは、適種は生物学的により不適な種に必然的に勝利することを信じる社会的ダーウィン主義者だった。
 ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、下品な諸新聞のオーナーであるとともに、映画『市民ケーン(Citizen Kane)』に出てくるアンチヒーローだが、不名誉な電報を新聞写真家に送った。
 「君が写真を提供し、私が戦争を供給する」という・・。
 ニューイングランドの貴族、ヘンリー・キャボット・ロッジは、堅固なる帝国主義者だった。・・・
 ローズベルトによって編成されたカウボーイ、牧場夫、スポーツ好きの紳士からなる社会の屑の連隊、ラフ・ライダーズ(Rough Riders)(注5)は、それより更に戦闘的な戦争の雄叫びを持っていた。

 (注5)「ラフ・ライダーズというのは、米第1志願騎兵に与えられた名前だった。それは、米西戦争のために1898年に編成された3つの連隊のうちの一つであり、戦闘に参加した唯一の連隊だ。米陸軍は、その約30年前の南北戦争の後に弱体化し、人員不足の状態になっていた。そこで、ウィリアム・マッキンレー(William McKinley<。1843〜1901年。大統領:1897〜1901年
http://en.wikipedia.org/wiki/William_McKinley (太田)
>)大統領<(コラム#1995、3639、3649、3826)>は、戦争努力を支援するために、1250人の志願兵を招集した。・・・その最初の連隊長はレナード・ウッド(Leonard Wood<。1860〜1927年。医師。キューバ、フィリピンの軍事総督、米陸軍参謀長を歴任
http://en.wikipedia.org/wiki/Leonard_Wood (太田)
>)大佐だった・・・ウッド大佐が(米第1騎兵連隊、米第106騎兵連隊、そして米第1志願騎兵連隊からなる)第1騎兵旅団の旅団長に昇格した時、ラフ・ライダーズは、「ローズベルトのラフ・ライダーズ」となった。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Rough_Riders (太田)

 「粗っぽくタフで、俺たちゃくだらん存在(stuff)だ。俺たちゃ戦いたい、いくらでも戦いたい。ウアォ(Whoopee)!」という・・。
 だから、ローズベルトの顔がラシュモア山(Mount Rushmore)にワシントン、ジェファーソン、それにリンカーンと並んで彫り込まれたのは不思議ではない。・・・
 米西戦争は、深く広汎に大衆の支持を享受した。
 それは、<2003年の>イラク侵攻の時の支持よりもはるかに大きかった。・・・
 時の大統領のウィリアム・マッキンレー・・・は、大衆のキューバにおけるスペインの暴政に対する身の毛のよだつ思いを共有していたが、米国の軍事史における最も血腥かったところの、南北戦争の際の<最初の主要会戦で引き分けに終わった1862年9月17日の>アンティータム(Antietam)の戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Antietam (太田)
における殺戮を目にしたことにより、彼の記憶は傷跡を残していた。
 <だから、>彼は、懸命に長きにわたってスペインにキューバを放棄することで戦争を回避するよう説得を行った。
 もう一人の穏健派のレッドフィールド・プロクター(Redfield Proctor<。1831〜1908年
http://en.wikipedia.org/wiki/Redfield_Proctor (太田)
>)上院議員も、恐らく同程度に影響力を持っていた。
 彼は、身の毛のよだつという話には誇張があると確信し、キューバに視察目的で赴いたが、帰国するや、自分の想像を絶するほどひどかったと報告した。
 彼にとっては、メイン号の沈没よりも、「自由と私がこれまで知っていた中の最悪の失政からの救出を願っている」土着のキューバ人達のことの方が重大だった。
 プロクターは、その懐疑主義で知られていただけに、彼の言葉はマッキンレー政権と米議会で重視された。
 しかし、トーマス氏には重視できなかった。
 彼の本では、思慮深く、影響力のある人々の声は、彼が人種主義的な話がしたいがために無視されたのだ。・・・」(D)

 「・・・エヴァン・トーマスは、米国史に関する「偉大な人物理論」を信じている。
 少なくとも時々は・・。・・・
 この『The War Lovers』<という本>は、心理的伝記の極端な一例だ・・・」(E)
 
 「・・・39歳であり、後に病気の妻と5人の子供達を残し<て、>・・・ローズベルトは<キューバに出征していった。>
 <自分らしくもなく、>彼は、「他のどんな人とも同じように、私は撃たれたくないし、黄熱病ではもっと死にたくない」と彼は手紙に記した。
 彼は、家族を放置したくもなかった。
 しかし、彼は、「私が信じるところの義務を果たし」たいと思う、と語った。
 名誉が、彼に自分なりにできることを行うよう促したのだ。
 「私のような人物に対して投げかけられる最も一般的な痛烈な皮肉は、我々が、そうすべきだと口先だけで言って他人がそれをやるのを見ていたいと願う、空論的で居間に座った好戦論者だ、というものだ」というわけだ。・・・
 南北戦争の帰還兵で1897年の就任演説で「征服戦争」に反対する警告を発したところの、マッキンレー大統領は、キューバについての戦争を行うことに乗り気ではなかったが、世論が乗り気になった時にようやくその態度を変えた。・・・
 海軍戦略家のアルフレッド・T・マハン(Alfred T. Mahan<。1840〜1914年。地勢戦略家
http://en.wikipedia.org/wiki/Alfred_Thayer_Mahan (太田)
>)<(コラム#1995、3639)>の影響下にあったロッジは、長年大海軍だけでなく、米国が特定の戦略的な島々を獲得し、カリブ海と太平洋の諸部分をコントロールするという、彼が言うところの「大政策」を擁護してきていた。・・・」(G)

 「・・・南北戦争が始まった時、ローズベルトの父親たる父セオドアは、まだ29歳だった。
 ニューヨークのオランダ移民の子孫の間の彼の社会階級の多くの人々と同じく、彼は徴兵逃れをし、300ドルずつ払って2人の代わりの者を雇った。
 彼の娘達によれば、彼は南部生まれの妻であったミッティー(Mittie)の望みに敬意を表したのだ。
 彼女の家族は、南部諸州(Dixie<=Dixieland>)のために戦っていたからだ。
 「お母さんはとても弱くて、彼が自分の兄弟達と戦ったら自分は死んでしまうと思ったのよ」と父ローズベルトの長女の・・・アンナ(Anna)は回想している。・・・」(H)

4 終わりに

 欧州諸国のように収奪のためでもない、英国のように利益をあげるためでもない、そして日本のように安全保障のためでもない、米国の、明白な天命に突き動かされたところの、弱者・未開人の救済に藉口した帝国主義がこうして生まれ、その必然的結果として、米国は、東アジアへの干渉戦争を開始し、1975年までに、1000万人を優に超える東アジアの人々の不慮の死を招くことになり、その後遺症にいまだに我々は苦しんでいるわけです。

(完)