太田述正コラム#4158(2010.7.28)
<中西輝政の文明論をめぐって>(2010.8.28公開)

1 始めに

 読者のべじたんさんが送ってくれた西尾幹二・中西輝政『日本文明の主張―『国民の歴史』の衝撃』(PHP研究所 2000年11月)からの抜き刷りに主として拠って、中西の文明論をご紹介し、それに私のコメントを付することにしました。

2 中西の文明論

 (1)日本文明論

  ア 中西の主張

 「国際関係や社会における戦争や暴力の頻度、人間の移動、社会的モビリティや文化の体質という視点から見ていくと、400年くらいの周期を切り口として<日本史を>考えることもできるのではないでしょうか。」(105頁)

 「400年のうち、最初の約100年は・・・「激動の世紀」になります。しかし・・・次の100年は一気に「癒し」や「落ち着き」を求める動き・・・土着志向、内向き<で>安定<を求める動き>・・・が歴史をリードするようになる。・・・そして次の100年は「爛熟の時代」です。・・・最後の100年は「崩れの時代」・・・<ないし>停滞<の時代>・・・です。」(107、108頁)

 「こうしたサイクルとは別に、終始底流では先ほどの縄文的なモメントが働いているのですが、どうしようもなくなると、その中からあるいはもっと深いところから、厳しい環境の変化が訪れると必死で適応せんとする弥生的「底力」が出てくるというメカニズムが重なり合って存在しているいるのです。」(108頁)

 「私は日本文明を論じるとき、「縄文的なるものが文明の本当の中核部分にあって、外来のものを容赦なく換骨奪胎する"超システム”があった」という表現をします。・・・換骨し奪胎できるのは、・・・確固たる主体性を前提に成り立つことです。」(121、122頁)

 「豪族による慣行的な支配から中央集権的な律令制度へ映っていく天武・持統朝というのも、弥生的インパクトの一つだったという気がします・・・」(101頁)

 中西は、このように、彼独特のサイクル説と縄文・弥生交替論とを組み合わせ、日本史は、弥生化(ハイテンションと国際化が特徴)とその後の縄文回帰のサイクルのほぼ400年ごとの繰り返しである、とした上で、以下のような時代区分を提示しています。(べじたんさん提供の『国民の文明史』の目次(コラム#4153)も参照した。)

 4世紀〜:古墳時代と飛鳥時代
 8世紀〜:律令国家の成立から王朝国家の終焉まで
 12世紀〜:鎌倉時代と室町時代
 16世紀〜:戦国時代の始まりから明治時代の終わりまで
 20世紀〜:大正時代以降

  イ 私のコメント

 対談での発言あるということ、かつ、まだその日本文明論が思いつきの段階であったということなのかもしれませんが、中西自身のサイクル説と縄文・弥生交替論との関係が今一つしっくりこない感じで、主張として十分練れていないのではないか、というのが私の率直な感想です。

 時代区分についても、私のそれは、

 〜10世紀初頭:広義の弥生時代(弥生・古墳・飛鳥時代)
 〜12世紀末 :平安時代(縄文モード・マークI)
 〜17世紀初頭:混乱の時代(弥生モード・マークII)
 〜19世紀後半:江戸時代(縄文モード・マークII)
 〜20世紀初頭:明治・大正時代(弥生モード・マークII)
 〜現在   :昭和時代〜(縄文モード・マークIII)
 
といったところですから、中西のものとは丸っきり違うと言っていいでしょう。
 よって、「日本では、その文明のコアに縄文的なものがあって、内外環境が急を告げると弥生的なものが前面に出るが、常に縄文的なものに戻ろうとする力のモーメントが働いている」という点でこそ、中西と私の考えは一致しているものの、中西と私の縄文・弥生交替論は似て非なるものである、と言うべきでしょう。

 私の縄文・弥生交替論は、戦後、一夜にして軍事に対する日本人の意識が180度変わってしまったように見えるのはどうしてか、という疑問から出発して、戦後日本と江戸時代と平安時代という3つの時代の(治安のよさ、戦争のなさ、中性化などの)共通性に気づいたことを契機に思いついたものですが、恐らくは、中西の場合は、動機からして、私とは全く違っていたのでしょうね。

 なお、上記「」内的なことを中西が初めて公にしたのはいつかをチェックすることと、『国民の文明史』にざっと目を通すこととを、念のため、いつかはやってみたいと考えています。

 (2)イギリス文明論

  ア 中西の主張

 「19世紀のフランスの歴史家フランソワ・ギゾー・・・が学生に対して行なった講義録があるのですが、そこでしきりに嘆いているのです。「イギリスの文明が、なぜこれほどフランスと違うのか」というわけです。・・・イギリスはフランスとは違い、歴史上、大きな政治的・社会的動揺が少ない。その理由は「諸君、なんだろう」と・・・。」(122頁)

 「ギゾーが強調していうには、イギリスの問題は、島国だから次から次へと征服者がやって来ても、<スコットランドやウェールズの一部を除き、>逃げる場所がなかった<ために「堆積文明」になった>ということです。・・・
 この点、ピレネー山脈を越えたり、ライン川を下って逃げられるフランスとは大きく異なります。フランスはやはり「普遍性」を生命とする大陸的な「更地文明」で、前にあった諸々の文化をすべて壊してまったく新しいものを土台から建て直してしまいます。」(123頁)

 「17世紀の「ピューリタン革命」ですが、これについてよくいわれるのは、「ノルマンの支配に対するアングロサクソンの数百年にわたる怨念の発露」が、「王権に対する議会の反乱」というかたちをとって現れた、ということです。
 これはギゾーだけでなく、ウィンストン・チャーチルも「英語国民の歴史」という本の中でいっているのですが、"市民革命"とか"議会主権"という建前をとって現れた、民族的・文明的な怨念の蜂起がピューリタン革命であった、というのです。これは"古層"が下から間けつ的に突き上げる構図といえます。19世紀から20世紀に猖獗を極めたイギリスの労働組合運動にも、そんな本質がうかがえるかもしれません。
 ギゾーがいうには、イギリス人には<大陸のフランス人等と違って、>逃げていく場所がないから、元からいた民族を追い出すわけにもいかない。古い民族や文化を最初は力で抑え込んでも、結局はそれらと妥協しなければならないから、取り込んでいくメカニズムができ上がる。あるいは力の支配だけではどうにもならないから、取引を行なったりもする。また諸勢力が集団をつくることで、バランス・オブ・パワーを保っていく。
 彼等のチェック&バランスという哲学や政治文化も、こうした文明の構造から来ているのだとギゾーは説明しているのです。これはイギリス議会政治の説明として、私が見る限りもっとも腑に落ちる説明です。」(125〜126頁)

 「イギリスと日本との違いを考えると<イギリスは>大陸から泳いで渡れる距離にあ<り、>・・・しかもイギリスの近海は<日本の近海と違って>海流が非常に穏やかで<あることです。>・・・だから、イギリスは結局、「欧化(キリスト教化による西欧化)」されたが、日本は明らかな独自性を保ったのでしょう。・・・<ブリトン>人は<征服された>ローマの文化を完全に吸収することができません。換骨奪胎の容赦ないシステムをつくるという学習プログラムを持っていなかったのです。」(126、127頁)

 「イギリスは、超堆積文明としての日本文明と大陸型普遍文明あるいは私のいう「更地文明」との中間形態なのです。・・・中国とアメリカ<も>・・・更地文明<です。>・・・ロシアやアラビア、インド・・・もそうです。」(128、124頁)

  イ 私のコメント

 フランス人を含め、欧州人にはイギリスは理解できない、と私は考えており、ギゾーといえどもその例外ではありません。
 また、イギリス人の中でもよりにもよって、チャーチルを引き合いに出すとは、中西も不思議な人です。
 チャーチルはノーベル文学賞を受賞した名文家ではあっても、歴史学者であるとは言えないし、大英帝国を一挙に瓦解させた失格政治家ですから、抱いていた史観にも瑕疵があった疑いが濃厚です。
 こんな二人に拠ったのでは、およそイギリスは解明できません。

 私に言わせれば、イギリス人は、日本人と同様主体的に、しかし、日本人と違って「換骨奪胎」することなく、渡来した人々が背負ってきた他文化を1度ならず2度にわたって「完全に吸収」したことがある、という意味で世界で唯一無比の存在なのです。
 具体的には、イギリス在住民たるバスク人は、まず(ここはブリテン諸島在住の他のバスク人同様)渡来したケルト人の文化を主体的に「完全に吸収」しケルト化しますが、渡来して占領したローマ人の文化は拒否し、次いで渡来したベルガエ人と占領したアングロサクソン人のそれぞれの文化・・言語と非言語文化・・を「完全に吸収」し、その後は不変であり続けたのです。
 その後渡来して占領したノルマン人は、完全にイギリス化してしまいます。
 ちなみに、キリスト教(カトリシズム)は、ついにイギリス人の自然宗教志向性を根絶することができないまま、16世紀の国教会の成立によってイギリス人は事実上非キリスト教化して現在に至っているのです。

 (3)米国文明論

  ア 中西の主張

 「アメリカ<人>・・・の実際の生活・習俗は、いまでもアングロサクソンそのものです。ところが、習俗とは別の次元においては、たとえば利害関係に関わる人間行動や社会制度に関わる価値観や論理など、まったく別の「アメリカ的なるもの」がそのときできるのです。
 これは、アメリカの植民地時代、つまりはメイフラワー号による移住から独立宣言に至るまでの150年間に起きたことです。・・・<それ>がどういうものか一言でいうと、およそイギリス的でない「更地性」への強い志向なのです。」(129頁)

  イ 私のコメント

 北米植民地に渡ったイギリス人が、現地の環境の影響で、アングロサクソン(イギリス)文明を変形させた文明を形成した、という主張は、私にとっては初耳であり、中西独自の主張ではないかと思います。
 これに対し、私が、北米植民地に渡ったイギリス人は、最初から、欧州的なイギリス人であったからこそ、米国はアングロサクソンを主、欧州を従とするキメラの文明を形成した、と考えていることは、皆さんご承知のことと思います。

3 終わりに

 口幅ったい申し上げようですが、2000〜2003年の中西の文明論に係る主張を垣間見た限りでは、この10数年、日本の論壇をフォローしていない私として、まだ当分の間、このポリシーを変更する必要はない、と改めて痛感した次第です。