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太田述正コラム#3970(2010.4.25)
<ロバート・クレイギーとその戦い(続)(その7)>(2010.8.26公開)

 クレイギー「報告」と、この「反論」の二つを、共に青山大学の学術誌に転載した池田清教授は、後者に、「「クレーギー最終報告書」に反駁した英国外務省極東部の「覚え書き」」という副題をわざわざつけ、かつ、「英外務省極東部は、・・・クレーギー大使が日本の穏健派にかけた平和への期待を非現実的としてしりぞけた」と記しています(191)が、果たして「クレーギー大使が日本の穏健派にかけた平和への期待」がクレイギー報告から伺えただろうか、また、そもそも本当にそれは「反論」になっているのだろうか、というのが率直な私の感想です。
 更に、同教授は、「反論」193頁のの記述、「パールハーバーにいたる過去10年の間、諸兆候は、戦争への方向を次第に示してきた。これらの年月の歴史は、大英帝国が極東に保持する巨大な地位をあえて放棄する(ないしは第3国によって放逐された)場合にのみ、日英戦争は回避できたことを示している。…日英関係の漸進的な調整と一般的解決への期待は、幻想たらざるをえなかった」を引用し、これをもって「反論」の要旨としているところです。
 しかし、これまで申し上げてきたように、私の忖度するところ、クレイギーは、第一に、支那大陸において英国は既にその「巨大な地位」を急速に失いつつあり、究極的には支那に、そして当面は日本に、その地位を平和裏に明け渡すべきだ、第二に、他方、東アジアにおける英国の植民地は、当分の間現状を維持すべきだ、第三に、よって、日本を対英戦争へと追い詰めることは、第一に関しては無意味であり、第二に関しては日本にこれら植民地を占領されるであろうことから現状維持がほとんど不可能になると予想されるので有害だ、と考えていたのであり、「反論」は、以下、見て行くように、クレイギーのかかる考えに対して、具体的かつ詳細な批判を加えていない以上、全く「反論」になっていません。

 それでは、「反論」の具体的な記述を見て行きましょう。

 (1)反論1

 「日本は、内蒙古と中国の北部5省に防波堤を持つことは、ロシアと相まみえる時が来るまで、望ましいどころか絶対的に必要であると見ていた。
 このすべては、拡大に向けてのはるかに広汎な計画の序章に過ぎなかったのだ。
 満州事変が日本と英国及び米国との関係を大いに緊張させたとすれば、英国の影響力と物質的権益が遍く覆い、確固として根付いていた華北を日本が占領したことが、<英日の>権益の根本的な衝突を明るみに出すことは必至だった。
 「支那事変」が北京の近くで1937年7月7日に勃発した時、日本当局は、(大衆デモを組織することによって更に迫力を増進させたところの)声明をただちに発し、英国は今やロシアを超え、日本の第一番の敵になったとした。」(194〜195)

→日本は、自らがロシアのアジア浸食に対する防波堤となるため、支那大陸北部に勢力を伸張させたのであり、その防波堤を背後から脅かした蒋介石政権や、同政権に媚びを売って自らの権益の減衰を食い止めようとし、結果として日本の足を引っ張った英国を日本が敵視するに至ったのはやむを得ないことであり、日英関係の悪化は、一義的に英国側に責任がある、というのがクレイギーの見解であるところ、私も全く同感です。(太田)

 「<1940年に>ビルマの道をあらゆる軍事的交通に対して閉ざすよう日本政府から英国政府に要求があった。
 ダンケルクの後の英国のゆゆしい状況にもかかわらず、英国政府は、当初この要求を拒否しようとした。
 しかし、在京の<クレイギー>大使と駐在武官からの緊急の警告を秤量した後、米国から支援が得られないことにも鑑み、かつ、単独で極東でもう一つの戦争に直面するという極めてゆゆしい危険を冒すことは、本国における軍事的状況に鑑みれば正当化され難いとも判断し、英国政府は、不本意ながら、7月18日から三ヶ月間、<日本の>要求を受け入れることに決した。」(197)

→既に「報告」の紹介の中で取り上げた話を再度取り上げたのは、「大使と駐在武官から」、という箇所から、クレイギーの在任中の意見具申は、在京大使館幹部のコンセンサスを踏まえたものであり、更に言えば、「報告」そのものが、在京大使館幹部のコンセンサスを整理収録したものである可能性が高いことを裏付けているからです。(太田)

 「1894(第一次日支戦争)以降は、日本の政策において、明確かつ持続的な拡張主義の筋道があった。
 満州での冒険の後、成功こそすべてであるとの原則に則り、この筋道は何かはるかに堅固な(substantial)ものとなった。」(204)

→大英帝国も米国の東アジア干渉も「明確かつ持続的な拡張主義・・・政策」の産物ですが、だからどうしたと言いたくなりますね。
 問題は、それぞれの国がかかる政策を遂行した理由なのですが、それについては「反論」は何も触れていません。(太田)

 「欧米の(western)民主主義の形態(forms)は日本に真に根を下ろしたことがないが、1940〜41年に近衛公によって導入されたところの、「新体制運動」と「大政翼賛会」やその他の諸装置、という形をとった準(quasi-)全体主義的形態は、ドイツとイタリアのように一人の人間のリーダーシップに依存する独裁的制度を打ち立てることには全くならなかった。
 1937年以降の日本の真の方向は、次第により多く陸軍の統制下に入って行き、ついには、現役の陸軍士官である東條大将が1941年10月に首相に任命されるに至った。
 これは、公式に陸軍が日本の政策について責任を負ったことを意味した。
 しかし、このすべての期間、英国政府は日本の中枢(inner councils)に過激派を抑制する要素が存在したことを認識していた。
 (最後の3人の駐ロンドン大使である松平、吉田、重光の各氏はその中の人々だ。)・・・
 しかし、クレイギー大使<等からの>・・・報告に記された証拠が示すように、また、天津の封鎖、北部インドシナ、後には南部インドシナへの進駐、そして三国同盟といった公然たる行動が示すように、日本に対する政策の唯一の確かな基礎は、日本の政策の一般的方向に関する慎重かつ冷静な評価だったのだ。」(205)

→民主主義云々についてこそクレイギーは言及していませんが、ここのくだりはおおむね(「過激派」と「穏健派」をコインの裏表であるとする)クレイギーの「報告」中の認識と同じです。(太田)

(続く) 

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