太田述正コラム#3966(2010.4.23)
<ロバート・クレイギーとその戦い(続)(その5)>(2010.8.23公開)

 (3)D、E節

 「蘭領東インド諸島政府・・・当局の<日本との交渉における>断固たる、かつ臨機応変の態度は、私の情報源によれば、日本に極めて深刻な外交的敗北を与えたため、鋭い形で、常に問題になるところの「顔」が丸つぶれとなり、この不愉快な出来事の記憶を拭い去るために、あらゆる方面から日本政府によって精力的な行動がとられるべきだとする要求が執拗に行われることになったというのだ。」(228〜229)

→文脈的に1941年央頃に行われた石油等に係る(?)交渉のことをクレイギーは言っているのでしょうが、ここでの筆致は明らかにオランダ政府に批判的ですね。
 オランダは、1940年5月にナチスドイツに占領されて、女王以下、オランダ政府は英国に亡命します。
 それ以降、オランダが占領から解放されるまでオランダの首相を務めたゲルブランディ(Pieter Gerbrandy。1885〜1961年)は、戦後下野した時に、強硬に蘭領東インド諸島(インドネシア)の独立に反対する運動を展開したことからも、頭の固い人物であったと思われ、米英と共同歩調をとり続けた上で日本を対米英開戦に追い込んだら、日本軍にインドネシアを占領されてしまい、そうなれば、ほとんどオランダが関与できない形でインドネシアが遠くない将来に独立することになる、ということが全く予想できなかったのでしょう。
 この関連で、12月8日(欧米時間では7日)の日本の対米英開戦・・・英国に関しては、香港、シンガポールを爆撃、マライに侵攻・・を受け、米英は欧米時間の8日に対日宣戦を布告しますが、攻撃も受けていないオランダまで、同日付で対日宣戦を布告しています。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Netherlands_(1939%E2%80%931945)
http://en.wikipedia.org/wiki/Pieter_Gerbrandy
http://en.wikipedia.org/wiki/United_Kingdom_declaration_of_war_on_Japan_(1941)
 「これは、オランダ領東インド政庁が独断で宣戦布告し、当時ロンドンに亡命していた本国政府が追認したもの」です。
 <ちなみに、>「オランダは、第二次世界大戦中、日本に対してのみ宣戦布告し<ました」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%98%AD%E9%96%A2%E4%BF%82
(太田)

 「<日本の南部インドシナ進駐、それに対する米英蘭による経済制裁を経て、日米交渉が始まった時、英国政府がこの交渉に直接噛まないことにしたことに私は批判的であった。>
 私が英外務省に、成り行きがよろしくないと指摘し、交渉がうまく行かなかった場合に攻撃の矢面に立つのは米国よりむしろ英国であると考えられることから、英国政府はこの枢要なる交渉に関し、<せめて>その詳細を完全に<米国から>教えてもらうべきだと訴えた時、私はこれに同情的な回答を得たが、結局のところ、英国政府は、<日本との>議論は、全幅の信頼を寄せているところの、米国政府の手にだけ委ねられるべきであるというものだった。」(231)

→単細胞の米国に交渉を丸投げすることによって、対日交渉を失敗に導こうとした本国政府の浅はかさに呆れ、歯がみしているクレイギーの姿が目に浮かぶようなくだりですね。(太田)

 「近衛公の後を襲って・・・1941年10月18日新しく首相になった東條<英機(1884〜1948年。陸相:1940〜44年。首相:1941〜44年。首相就任と同時に大将に昇任
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F (太田)
)>大将は、彼の前任者とは極めて異なった種類の人物だった。
 果断、明晰、そして極めつきにナショナリスティックな外見でありつつ、米国との決裂を避けることに本当に心を砕いていた。
 以前の諸内閣において陸相として、彼は、常に、米国政府との交渉によって解決するという観念に同情的にふるまってきた。
 しかし、首相になった時には、東條大将は、軍事階統制の、より過激な指導者達の多くが抱いていた見解に同意するに至ったということを明らかにした。
 それは、既に6ヶ月も続いていた米国との対話を<引き続き>ぐずぐずと続けていくわけにはいかず、数週間のうちに何らかの形で解決へと到達しなければならないということだった。
 その結果、この政権が最初にやったことは、臨時国会を11月15日に開き、首相に米国に対する公的な督促(mise en demeure)に相当することを行わせる機会を与えることだった。
 この力強い(forceful)演説の中で、東條大将は、米国と英国が日本に対する経済封鎖を解くこと、支那への支援を止めること、太平洋地域における日本の平和的大望を政治的軍事的に妨害しようとしないこと、を求めた。
 それは、日本の忍耐が尽きたことを仄めかしたものだった。(注3)」(234)

 (注3)東條英機内閣総理大臣の施政方針演説(11月17日、於衆議院、貴族院)
http://www.youtube.com/watch?v=Srt7qi2XcwQ (太田)

→クレイギーの東條に対する暖かい眼差しが印象的ですが、わざわざ、当時の日本の議会制が機能していることに注意を喚起するかのような書きぶりが面白いですね。(太田)

 <ハルノートがつきつけられる前に一旦ハルが用意した暫定的対日提案の案(コラム#3958)>が<日本政府に>提出されておれば、我々に更に貴重な数ヶ月が与えられたはずだった。
 この関連で、陸軍省軍務局長の佐藤<賢了(1895〜1975年)>(注4)少将が1942年3月10日に発出した声明・・・を思い起こすことは適切だ。

 (注4)中佐当時の1938年3月、国家総動員法審議中に、議員からの野次に対し「黙れ!」と一喝して問題になった(「黙れ」事件)。最後は中将。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B3%A2%E4%BA%86 (太田)

 この声明には、<1941年>12月8日が何事もなく過ぎておれば、英国と米国攻撃のために同等に好ましい瞬間は、早くてもその翌年の3月までは訪れなかっただろうとある。
 日本との戦争勃発の直後の数週間に起こった連合国軍の西部ロシアと北アフリカにおいて達成された重要な勝利、及び、当時、対<ドイツ>潜水艦戦において到達していた相対的に好ましい状況、に鑑みれば、あの十字路において時間を稼ぐことができておれば、極東におけるその後の出来事の展開が全く異なったものになっていたというのは、少なくとも主張するに足る(tenable)主張(proposition)だ。」(241)

→1941年12月8日に日本政府によって拘束され、その後英国に送還されたクレイギーが入手できた「声明」である以上、それは公表されたものであったのでしょうが、いずれにせよ、それは、クレイギーの主張の補強材料に過ぎません。
 クレイギーの主張通り、チャーチルの英国政府は、ハルの暫定的対日提案の案を積極的に後押ししなかったことによって、待ち焦がれていた日本による対米(及び対英)開戦を実現し、その結果として東アジアの英国領が日本によって占領されることとなり、ひいては、(あえてクレイギーが予言を控えたところの、)大英帝国の瓦解をもたらしたのです。(太田)

(続く)