太田述正コラム#3956(2010.4.18)
<ロバート・クレイギーとその戦い(続)(その1)>(2010.8.18公開)

1 始めに

 本シリーズは、以前(コラム#3794で)「チャーチルが余りのヘボ政治家であって・・・、クレイギーらの意見具申を無視して、チャーチル自身よりも更に数段出来の悪いローズベルトと共に日本を戦争に引きずり込んだ結果、大英帝国の瓦解と共産主義勢力の世界的大躍進をもたらしてしま<った>」と記したことを、読者が送ってくれた、クレイギーの報告書 'Sir R. Craigie to Mr. Eden. (Final Report by Sir R. Craigie on conclusion of his Mission to Japan)(1943年2月4日付)、及び、この報告書に対する英外務省極東部の反論書 'From the Burma Road Crisis to Pearl Harbour(Memorandum by Far Eastern Department.)' からなる 'Documents Relating to the Outbreak of War with Japan' をもとに、補足しようというものです。

 上記報告書等の出所は、青山国際政経論集の下掲です。

駐日英大使・ロバート・クレイギーのアンソニー・イーデン外相宛の最終報告書(1)
第33号 資料 169 - 186 (総論)
駐日英大使・ロバート・クレイギーのアンソニー・イーデン外相宛の最終報告書(2)
第34号 資料 217 - 233 (A〜C節)
駐日英大使・ロバート・クレイギーのアンソニー・イーデン外相宛の最終報告書(3)
第35号 資料 227 - 254 (D、E節)
ビルマロード危機からパールハーバーへ「クレイギー最終報告書」に反駁した英国外務省極東部の「覚書」(1)
第40号 資料 191 - 215 (反論1)
ビルマロード危機からパールハーバーへ「クレイギー最終報告書」に反駁した英国外務省極東部の「覚書」(2) 
第41号 資料 149 - 171 (反論2)
ビルマロード危機からパールハーバーへ「クレイギー最終報告書」に反駁した英国外務省極東部の「覚書」(3) 
第42号 資料 71 - 92  (反論3)

2 クレイギーの報告書

 (1)総論

 「私のコメントは、ここ<東京>では全体の絵柄の一部しか見えなかったことと、また、世界の他のいくつもの部分でとられた措置についてのあれやこれやの理由が東京でははっきり見えなかったかもしれないこととを十分認識しつつ行ったものだ。」(172)

→確かに、チャーチル(やイーデン)には全体の絵柄が見えていた(see)でしょうが、だからと言ってチャーチルが本当に全体の絵柄を見ていた(watch)かと言えば、そうではなさそうです。
 クレイギーの方こそ、全体の絵柄を見ていた、と私は考えています。(太田)

 「1941年の年間を通じて、本職から送った警告は、要するに、日本の軍事攻撃が外交的手段によって回避できなければ、それは、多くの英国当局が予期していたように思われるものよりも、大きな規模で、かつ早い時期になされるだろう、ということだ。」(173)

→少し先回りして言えば、日本の軍事攻撃を許せば、マライやビルマが日本によって占領されるであろうこと、それがアジアにおける英国の植民地の喪失につながりうることをクレイギーは予期していた、ということでしょう。(太田)

 「(米国時間の11月25日に、)米国のハワイ当局は日本の攻撃の危険性を警告されていた。
 <また、>私は、12月3日に米国の<在京>米海軍武官(米大使ではない)がその暗号機をすべて破壊せよとの指示を受けたことを知っている。
 <更に、私は、>12月7日にはシンガポール英当局(COIS)から、6日に、英偵察機によって、日本の護衛された船団がインドシナからシャム湾を横切って西と北西に向かっているのが目撃され・・この動きは、戦争の意図を意味するとしか考えられない・・との報告を受けた。
 だから、関係英諸当局は、正確な場所やその対象たる場所はともかくとして、<日本の武力>攻撃が差し迫っていることに気づいていたのだ。」(173〜174)

→英国も、従って当然米国も、12月8日頃に日本が対米英武力攻撃を開始するであろうことは予期していた、ということです。(太田)

 「<ドイツとの>2年と4分の1年にわたる闘争を経て、英国とその連合諸国は、東京から見ていると、ようやくドイツに対する優位を得つつあった。
 すなわち、ドイツ軍前線に向かってロシア軍は着実に圧力をかけつつあったし、我々のリビアにおける軍はベンガジ(Benghazi)を越えて押し出しつつあったし、米国からは我々は既に気前良く、物資と積極的な支援を得ていた。
 <この最後の点だが、>それは、我々にとって最も枢要なこと、つまり、<米国による、>大西洋を横切る<英国の>船舶群の護衛及びドイツの潜水艦群や水上襲撃船群に対する「宣戦なき」戦争だった。
 東京から見ている限り、我々は大西洋における戦いに勝利を収めようとしており、他の諸前線では防勢から攻勢へと転じつつあった。
 すなわち、この戦争は、初めて、日本人の偏見を持った眼から見てさえも、ドイツの勝利の展望に疑問符が付くという段階に達していたのだ。
 もちろん、これは危険な段階でもあった。
 というのは、日本の軍事主義者達は、ドイツの攻勢力が明確な崩壊の兆候を示す前に彼等の効果的軍事介入の最後の機会が訪れると自覚するであろうからだ。」(177)

→これは、繰り返しクレイギーが述べる点です。
 つまり、後ほんの少し日本による開戦を先延ばしできれば、日本が開戦する機会は永遠に失われる、そもそも、既に事実上参戦している米国を本格的に参戦させなくても、この戦争に英国が敗北することはない、とクレイギーは(正しくも)見通していた、ということです。
 私は、ドイツとソ連の双方を疲労困憊させることが、英国にとって最も上策だとクレイギーが考えていた、とさえ思うのです。(太田)

 「もう一つの考え方は、米国が対ドイツ戦に参加することが<英国を始めとする>連合国にとって枢要であることから、日本に他の方面で戦争を始めさせるという代償を払ってでも、それを確保すべきであるとする。
 東京にいて、戦略的立場の全体については限定的な知識しか持たなかった私なので、この点について権威ある見解を提供できるというつもりはない。
 ただ、私が言いたいのは、主として太平洋と東アジアの状況の観点から本件を見ると、かかる理論はざっくり言って私からすれば、常に疑問があったということだ。
 異なった累次の時に、この考え方を論駁しようと努力して、私は、日本の陸海軍の士気の高さ、日本国民の決意、勇気、そして忍耐力、更にはこれに加えて、日支戦争が日本の軍事的な強さと経済的な安定性に深刻な侵害を生ぜしめていないことに注意を喚起してきた。
 私は、日米戦争が生起すると、米国の関心と資源は日本の太平洋における攻撃に対抗することに十全に投入されざるを得ず、少なくとも若干の期間は、米国の大西洋における、及び大西洋を横切っての、我々への物的支援は深刻に切り詰められることが必至だ、と主張したものだ。・・・
 ・・・<私の見解は、英国は、>日本の中立性を維持しつつ、米国をこの戦争に参加させる<ことを目指すべきではないか、というものだった。>」(177〜178)

→「アジアにおける英国の植民地の喪失につながりうる」(上述)ような危険を冒してまでどうして日本に開戦をさせ、そのことによって米国を第二次世界大戦に本格参戦させるなどという馬鹿なことを考えるのか、とクレイギーは畳みかけているわけです。(太田)

(続く)