太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#3954(2010.4.17)
<アルフレッド大王随想>(2010.8.17公開)

1 始めに

 デーヴィッド・ホースプール(David Horspool)著の 'The English Rebel: One Thousand Years of Troublemaking, from the Normans to the Nineties' を買うつもりで、間違って買ってしまった、エドワード・ヴァランス(Edward Vallance)著 'A Radical History of Britain: Visionaries, Rebels and Revolutionaries, The Men and Women Who Fought for our Freedoms'(コラム#3465) を読み始めているのですが、アルフレッド大王の話が最初に出てきます。
 この本から、この大王についてご紹介するとともに、私の感想を付したいと思います。 ちなみに、ヴァランスは、英国のローハンプトン(Roehampton)大学の中世初期史の講師です。

2 アルフレッド大王

 この本の1〜2頁にアルフレッド大王(Alfred the Great。849〜899年。国王:871〜899年。ウェセックス(Wessex)王だが、初めてアングロサクソンの王と呼称した。この血筋がエリザベス2世女王までつながる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alfred_the_Great
)の挿話が紹介されていますが、英語Wikiの助けを借りて要約しましょう。

 「・・・12世紀に書かれた諸年代記に始まる一般に流布した伝説によると、<ヴァイキングの攻勢から逃れたウェセックス王アルフレッドは、878年の最初の数ヶ月、>サマーセット平原(Somerset Levels)に逃げ、<ある豚飼いの農夫の家に身を潜めた。>
 <その男の>奥さんは、アルフレッドが国王であることを知らなかったが、所用ができたので、火にかけてある何個かのケーキを見ているようにアルフレッドに頼んで出て行った。
 自分の王国の諸問題のことを考え出したアルフレッドは、ケーキを焦がしてしまい、戻ってきた奥さんに叱られた。
 国王であることを知った彼女は、恐縮しまくった。
 しかし、アルフレッドは自分の方こそ謝らなければならないと言い続けた。
 <この>挿話は、・・・<アルフレッドの>敬虔さとキリスト教的謙遜を強調し<たものだ。>・・・」(ウィキ上掲)

 そして、この挿話を受ける形で、ヴァランスは、以下のように記しています。

 「ヘンリエッタ・マーシャル(Henrietta Marshll)が1905年に出版した 'Our Island Story' は英国史の急進的再解釈の一つだ」(PP4)
 「マーシャルは、<それまでの一般的な見方であった、英国の軍事的優位を築いた人物としてではなく、>その生涯を通じてアルフレッドが彼の民のことだけ、そして民にとって何が最も良いことかだけを考え続けた」ことでもってアルフレッドを称賛した。・・・
 マーシャルは平和志向であり、君主は、要するに民の召使いであると見て<いた。>」(PP5)
 「マーシャルは、ノルマン法は、アングロサクソン期の英国人達がアルフレッドの下で享受していた自由を奴隷の境遇へと貶めてしまったと感じていた。」(PP6)

2 感想・・終わりに代えて                                     
 改めて痛感したのですが、イギリス人の間には、国王、すなわち政府は自分達のために良い政治をしてくれる存在である、という観念があるということです。
 そして11世紀の外来のノルマン人による征服・・この一回だけ、上記血筋が断絶する・・をノルマンの頸城(Norman Yoke)と称し、国王、すなわち政府を、征服以前の本来のあり方に戻そうという発想をイギリス人は抱き続けるのです。
 イギリスって、この点でも日本と似ている、と思われませんでしたか?

 日本の場合、まず、仁徳天皇(257〜399年:天皇:313〜399年)伝説がありますね。
 仁徳天皇御製とされる「高き屋に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民のかまどは にぎはひにけり」という短歌・・(意訳)仁徳天皇が、高殿に登って国のありさまを見わたすと、民家のかまどから煙がたちのぼっている。民の生活が成り立っていることをうれしく思う。・・は、誤伝であるようですが、
http://www.gameou.com/~rendaico/kotoba_waka.htm
その背景として、記紀に記されている、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに仁徳天皇が気づいて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う逸話
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
が一般に流布していた、ということがあります。
 そして、時代が下ると、鎌倉時代から室町時代に流布した北条時頼(1227〜63年。執権:1246〜56年)の廻国伝説を元にしたお能の『鉢木』が有名ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A2%E6%9C%A8
 その背景には、時頼が「庶民に対しても救済政策を採って積極的に庶民を保護し<た>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E9%A0%BC
という実態がありました。 
 江戸時代の水戸黄門伝説は言うまでもありません。

 こんな国は世界広しといえども、イギリスと日本くらいです。
 両国とも、国土が豊かである上に、島国であったことから、内からも外からも脅威が少なく、重税を課す必要がなかったという事情が政府への信頼をもたらした、と言って良いでしょう。

 さて、イギリスと比べた場合の日本の凄さは、国王(天皇)への信頼を維持するために、天皇が権威は持つが権力を持たない存在へと祭り上げられていったところにあります。
 時頼の場合、彼の上に名目だけの将軍がおり、更にその上に同じく名目だけの天皇がいたわけで、仮に執権が失政をしたとしても、天皇に傷がつくことはなく、君側の奸を取り除く、つまり、その執権、場合によっては、鎌倉幕府を打倒すれば、政府は本来のあり方に戻ることになるわけです。
 一方、イギリスの方は、国王自身が権力を維持し続けたため、17世紀には国王殺しまで起こってしまった、ということになります。
 我々は、日本の政治的伝統の超先進性にもっと自信を持ってよいのではないでしょうか。

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/