太田述正コラム#3952(2010.4.16)
<第一次インドシナ戦争(その5)>(2010.8.16公開)

 (4)第二次インドシナ戦争へ

 「・・・ジョセフ・ラニエル(Joseph Laniel<。1889〜1975年。仏第4共和制下の首相:1953年6月〜1954年6月
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Laniel (太田)
>)首相を戴くフランスの弱い政府は、<ディエンビエンフーでの>大災厄を回避する措置を全くとらず、むしろそれは不人気な戦争を終わらせる言い訳になると自覚し始めていた。
 事実上アンソニー・イーデン(Anthony Eden)外相によって率いられていたところの、英国政府は、ソ連及び中共とのデタントを欲しており、英国のように、フランスもそのアジアの帝国を放棄しない理由はないと考えていた。
 しかし、米国務長官のジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)と・・・アーサー・ラドフォード大将<(前出)>は、ダレスがこの危機の間にラニエルに示唆したところの、核兵器の使用もほとんど確実に厭わず、インドシナをめぐって中共と連合国が対決することを欲していた。
 モーガンは、英国とフランスの反対、米議会の消極性、更には、大統領のドワイト・アイゼンハワーが米国単独で行動することを拒否したこと、がどのようにダレスとラドフォードの計画を止めたかを、相当詳しく示している。
 しかし、それでもダレスは、ジュネーブ諸協定に調印することを拒否した。
 というのも、それらは、ホーチミンによる、もう一つの新たな共産主義政府に正当性を付与したものだったからだ。
 アジアと欧米の諸大国を引き入れて参戦するための同盟をつくりあげようと何ヶ月も費やした挙げ句、ダレスは、<第一次インドシナ戦争が>終わってから東南アジア条約機構を形成することで、かつ、米国の人力とカネを使って南ベトナム、ラオス、カンボディアに非共産主義要塞をそれぞれ構築することを試みることで、満足せざるを得なかった。・・・」(A)

 「・・・<アイゼンハワー>大統領は、連合諸国から統一的行動と関与が得られるという条件下ならば、統合参謀本部からのフランス軍を支援するための空爆を考慮するとした。
 しかし、彼は米議会に下駄を預け、この計画を推進しようとはしなかった。
 ダレスが米議会の指導者達と会った時、<後に大統領になる>ジョンソンは他の諸国から部隊を派遣するという約束が一つでも得られているのかと尋ねた。
 ダレスが得ていないことを認めると、ジョンソンらは、話を進めることに気乗りしなかった。
 このことは、必ずしも大統領のご機嫌を損ねなかった。
 彼は、目の前にあったすべての選択肢が悪いものばかりであることを既に自覚しており、「彼は、米議会が米国単独での行動を阻止してくれることを欲していたように見える」とモーガンは記している。・・・」(D)

 「・・・ジョン・F・ケネディやリンドン・ジョンソンのような、米国における政策立案者達は、ディエンビエンフーに米軍機を送ることは躊躇したけれど、<その後、>フランスの失敗を何度も何度も繰り返すことになる。
 ディエンビエンフーのような顕著な戦場における敗北こそなかったけれど、「米国の戦争」<たるベトナム戦争>は、「フランスの戦争」<たる第一次インドシナ戦争>のほとんどカーボン紙によるコピーだった。・・・」(E)

 「・・・ディエンビエンフー<の戦い>は、第二次世界大戦終結以来の最も重要な戦闘だった。
 東南アジアにおいて、当時フランス領インドシナと呼ばれていた地域をめぐってのこの闘争は、1945年に始まり1975年になってようやく終わった。
 かくして、この戦争は、片足を第二次世界大戦に置き、もう片方の足を冷戦に置いた戦争だったのだ。・・・」(F)

 「・・・ディエンビエンフーの戦闘の真っ最中も、米国の政治的・軍事的指導者達は、薄れ行く反植民地主義、それと次第に強まる封じ込め、という二つの至上命題の狭間で股裂き状態が続いたわけだ。・・・」(F)

3 終わりに

 米国は、1945年の時点でベトミンと話をつけて、フランスの復帰を許さず、ベトナムをベトミンに事実上与えるのと見返りにそれ以上の共産主義勢力の東南アジア進出を阻止する算段を講じるか、フランスの復帰を軍事力をもって支援してベトミンを叩きつぶすか、そのどちらかを選ばなければならなかったのです。
 もとより、1945年時点ではまだ共産主義の真の恐ろしさを実感するに至っていなかった米国の指導者達が後者の選択肢をとることはありえなかったにせよ、遅くとも、朝鮮戦争が勃発した1950年以降のできるだけ早い時点で、米国は、単独ででもインドシナに軍事介入すべきだったのです。
 結局、第一次インドシナ戦争に介入する機会を逸した米国は、その後、南ベトナムでベトミンの後継たる北ベトナム軍と戦うわけですが、途中で嫌気がさし、事実上敗北を喫し、南ベトナムだけでなく、ラオスも、そして一時的にはカンボディアまでも共産主義勢力の手に落ちてしまいます。
 その間、英国は、1948年から60年まで、マラヤで共産主義勢力との内戦を戦い、何とかこれに勝利するわけです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Malayan_Emergency
 
 ここから言えることは二つあります。
 米国が、民主主義独裁勢力を抑えてきた地域覇権国であった日本を叩きつぶした結果、民主主義独裁勢力が支那を乗っ取っただけでなく、朝鮮半島の北半分とインドシナ半島の東半分まで席巻してしまったということが第一点です。
 そして、1937年から始まった米国の東アジアの大陸部への軍事介入において、常に焦点となったのは北部インドシナであったということが第二点です。
 後者については、日本軍の1940年の北部インドシナ(仏印)進駐によって米国の対日経済制裁が始まり、翌1941年の南部インドシナ(仏印)進駐によって、米国の対日経済制裁が強化され、日本が対米戦へと追い詰められて行った
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%8D%B0%E9%80%B2%E9%A7%90
ことを想起していただきたいですね。 

(完)