太田述正コラム#3946(2010.4.13)
<第一次インドシナ戦争(その2)>(2010.8.6公開)

 (2)第一次インドシナ戦争の開始

 「・・・素晴らしい革命家であるホーチミン(Ho Chi Minh)によって率いられたベトミン(Vietminh)、すなわち、共産主義叛乱者達、ないしは世界の多くの人々からすればベトナムの自由の戦士達、は1945年9月2日、フランスからの独立を宣言した。
 それは、日本がダグラス・マッカーサー大将の下の連合軍に米国艦艇のミズリー号の甲板で降伏した日だった。
 その日に一つの戦争が終わり、もう一つの戦争が始まった。
 フランスは、東南アジアにおける主要大国としての地位を回復しようという無謀なことを企て、ホーチミンを叩きつぶすための遠征軍を派遣したのだ。
 フランスの権力を回復するための戦役は、30年間続くことになる「流砂的戦争」へとエスカレートしていく。・・・」(E)

 「・・・いくつかの運命の転変がなかったとすれば、長く厳しいベトナム戦争は決して起こらなかったことだろう。
 フランクリン・D・ローズベルト大統領が第二次世界大戦後の平和構築(peace-making)努力を監督するだけ長く生きていたならば、1946年における戦争の勃発をもたらした不安定な状況を安定させるべく行動したことはほぼ間違いない。
 モーガンの本の最初の章は、ローズベルトが西欧の植民地主義、とりわけフランスの非情な(heavy handed)インドシナ統治を嫌っていたことに焦点をあてている。
 「フランスはこの国の3,000万人の住民を100年近く統治してきたが、人々の生活は、かつてよりむしろ苦しくなっている」とフランスの植民地体制について侮蔑の念を吐露している。・・・

→我々は、1937年から始まった「大東亜」を舞台にした、米国を軸とする戦争(熱戦)は、1975年まで続いた、という認識を持つべきだということです。
 このような観点に立てば、モーガンのローズベルト評は、ひどいピンボケであり、外国系で米国人として米国に過剰適応したもう一つの例でしょうね。
 なぜならば、日本の敗戦後に第一次インドシナ戦争の勃発をもたらすこととなった米国の対日戦を日本に強いたのはローズベルトだからです。
 なお、ローズベルトのフランスによる植民地統治の批判は、我が身を省みてものを言え、米国によるフィリピン統治はどうだったのだ、と言いたくなりますね。(太田) 

 ホーチミンと彼の有能な軍事的補佐官であったボー・グエン・ザップ(Vo Nguyen Giap)は、支那-ビルマ-インド戦域における米国の軍事指導者達に何度も接触している。
 彼等は、撃墜された米国の操縦士達を助け、OSSから武器や訓練を受けた後は、フランスからインドシナを奪った(注1)日本軍を悩ませ始めた。

 (注1)連合軍がフランスを解放し、ヴィシー政権が倒れると、日本は、在インドシナ・フランス軍を制圧し、ベトナムにベトナム阮朝第13代にして、ベトナム最後の皇帝であったバオダイ(保大)を皇帝とする越南帝国の成立を認めた。終戦後、彼はベトミンによって退位に追い込まれる。後、一時南ベトナムの元首となる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Decoux 前掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%A4%A7%E5%B8%9D (太田)

 フランスは、1946年3月2日に、50,000人の部隊でもってハイフォンに上陸し、<インドシナに>戻ってきた。
 フランスは、当初はホーチミンのベトナム民主共和国を承認したが、交渉はすぐに物別れとなり、12月にはにらみ合いが実弾の飛び交う戦争へと事態は悪化した。・・・」(E)

 「・・・欧州の植民地主義への嫌悪をぐっと飲み込み、トルーマン政権は<フランス軍に>少量の武器や需品の供給を始めた。
 1950年6月27日、朝鮮戦争勃発の2日後、トルーマンは、フランスとフランス連合(Associated States)・・フランス、ベトナム、ラオス、カンボディアからなる、フランスによって創設されたところの、英連邦の生煮えの物真似・・を助けるための米軍事顧問団(U.S. Military Assistance Advisory Group=MAAG)の発足を表明した。
 1950年8月、MAAGの最初の米将校達がサイゴンに到着した。
 地獄への道は、<こうして>小刻みな形で始まったのだ。
 MAAGが<現地に>司令部をつくったばかりの1950年10月、ベトナムの中共との国境付近で、フランスの二つの自動車化縦列が待ち伏せ攻撃に遭い壊滅した。
 これにより、毛沢東の勝ち誇ったアカの支那は、ベトミンへの自身による軍事援助プログラムを開始することが可能となった。
 フランスは、ハノイ周辺の紅河(Red River)デルタ地帯の防御へと舞い戻らざるをえなかった。
 ジャン・ド・ラットル・ド・タッシニー(Jean de Lattre de Tassigny<。1889〜1952年。レジスタンス時代を含め、輝かしい軍歴あり。死後元帥位を授与
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_de_Lattre_de_Tassigny (太田)
>)大将の下、フランスは1951年の間に若干の失地回復ができた。
 しかし、ラットルは、彼の一人息子の戦死と自身が癌を患ったことにより、精神的に落ち込んでしまい、<帰国していたパリで>その翌年死亡した。・・・
 1953年5月に、朝鮮戦争がその最終的な苛つく段階に入ると、フランスは、アカの支那がそう遠からずベトミンを助けるためにより多くのエネルギーと資源を投入できるようになることを悟った。
 新しい司令官としてアンリ・ナヴァール(Henri Navarre<。1898〜1983年。ラットルの後任の後を襲った
http://en.wikipedia.org/wiki/Henri_Navarre (太田)
>)大将が、敗北の危機を回避して勝利を得るためにインドシナに派遣されることになった。
 彼の軍歴は申し分なかったけれど、ナヴァールは気質的に参謀将校だった。
 彼の軍歴の全ては欧州におけるものだったし、ベトミンの怒濤の寄せに対処するための補強戦力も、彼にほとんど与えられなかった。
 彼は、到底勝ち目のない場所に派遣された間違った人物だったのだ。・・・
 1953年4月、ナヴァールが司令官職に就く1ヶ月前に、ザップの部隊は大胆にもラオスへの襲撃をかけた。
 ワシントンでは、アイゼンハワー大統領を含む米国の高官達が、「インドシナはドミノの最初の列だ。もしこれが倒れたら、その近隣地域も早晩一緒に倒れるだろう。そして一体それはどこで止まると言うんだ」ということを恐れ始めた。・・・
 ナヴァールは、<フランス軍による>ハノイとハイフォン周辺の静的防御がベトミンよりむしろフランス軍を拘束している、と見た。・・・」(E)

 「・・・ホーチミンのベトミン部隊の前進を受けて、1952年にこの<ディエンビエンフーという>場所からフランス軍は撤退するのだが、フランスの<インドシナ>北方司令部は、そこを「地上における穴」と呼び、「ディエンビエンフーは戦略的地域ではない」と主張した。・・・
 <米国は、>早くも1950年に、(当時米国務省の極東担当次官補であった)ディーン・ラスク(Dean Rusk)の特別補佐官をベトナムに派遣し、フランスを助けるためには米国はどうすれば最もよいかを決定しようとした。
 彼がラスクに送った電文には、「フランスに対する憎悪と不信が余りにも深く<ベトナム人の間に>根を下ろしているため、現状においては、<米国のフランスとの>長期にわたる協力のための真の基盤など存在しえない」とあった。
 しかも、その電文には、米国がフランスと同一視されるならば、「それは米国のアジアにおける影響力を弱めるだろう」と記されていた。・・・」(G)

 「・・・戦争はディエンビエンフーで頂点に達した。
 そこにフランス軍は、<当初の予定を変更し、>ベトミンの解放軍を紅河デルタ地帯から引き寄せ、ベトミンのラオスへの攻撃を防止する、という企図の下、飛行場と基地を設けていた。・・・」(C)

(続く)