太田述正コラム#3942(2010.4.11)
<ナポレオンを破ったロシア(その2)>(2010.8.4公開)

3 大敗北に終わったロシア遠征

 「・・・恐らく、歴史上、このような希にみる軍事天才がこれほどの軍事的大災厄を被ったことはないだろう。・・・
 ナポレオンは、ロシア侵攻を450,000人で始めたが、そのうち、家に戻れたのは6,000人だけだった。・・・
 リーヴェンによれば、120,000人の兵士と40,000頭の馬には、一日分の食糧と糧秣だけでも850もの荷車を伴わせる必要があった。
 これに加えて、これよりずっと大きな分量の、火薬、及び病人と負傷者のための医薬品、そして天幕等の需品、が必要だった。・・・
 非正規戦士として育てられるコサック(Cossack)と、それよりはるかに優れたロシアの軽騎兵部隊に対して、フランス軍(ナポレオンはそれらに敬意を抱いており、自分の陣営に彼等のような存在が付いてくれていたらと願った)は最も恐れを抱いていた。
 地方の農民達からフランス軍部隊についての情報を得て、素早く機動することができたため、<コサックや軽騎兵部隊>は、フランス軍のうち糧秣を探し回っていた連中を容赦なく苦しめた。
 ナポレオンがモスクワに到着した時、状況は、彼と彼の枢要なる騎兵にとって、更に悪化した。
 当時、静止している軍は、馬に対するその地域の糧秣の供給を急速に根絶やしにしてしまうものであり、<フランス軍も>糧秣探しの出動を次第に遠征して行わざるを得なくなり、一層パルチザンに対して脆弱となって行ったからだ。・・・
 <結局、>ナポレオンは、ロシアに率いていった兵士の大部分を失っただけでなく、馬を175,000頭も失うこととなる。
 兵士は補充することができたし、実際、翌年の戦闘までにはおおむね補充することができたけれど、馬の方はそうはいかなかった。
 1813年には、フランス帝国中を漁り回ったにもかかわらず、29,000頭しか調達できなかったし、その大部分は最上の質のものではなかった。
 これが1813年の会戦でフランスの足を引っ張り、同年の夏と秋におけるナポレオンの運命を暗転させたかなり大きな要因となった。・・・」
http://www.nytimes.com/2010/04/08/books/08book.html?hpw=&pagewanted=print
(書評。以下同じ)

 「・・・欧米人が著したロシア対ナポレオンの<戦いの>歴史書の大部分はほとんど1812年だけに焦点をあててきている。
 <その一方で>ロシアの1813〜14年の軍事諸作戦は通常見すごされてきた。
 また、欧米の著者達は、ナポレオンと彼の1812年の巨大な軍、そしてロシアの冬にも焦点をあててきた。
 <しかし、>彼等は、ロシア政府の行動や軍事諸作戦など、ほとんど歯牙にもかけなかったのだ。
 <軍の>戦闘と機動にかてて加えて、この本は、政治的かつ経済的諸要素についても取り扱う。
 リーヴェンは、欧州と米国での本件についての説明においては、レオ・トルストイ(Leo Tolstoy<。1828〜1910年>)が1869年の小説、『戦争と平和』で行ったのと全く同じようにナポレオンに対するロシアの抵抗運動を描いてきたと述べる。
 すなわち、ごくありふれたロシア人達が彼等の古里の地の情熱的かつ愛郷的防衛のために団結したと・・。
 しかし、この著者は、欧米の学者達は、ロシア政府、及びロシア皇帝の軍における統率の貢献度に適正な考慮を与えていない、と述べている。・・・
 この本が提供する新たな諸洞察の一つが、著者がロシアの諜報機関がいかにナポレオンの軍事的かつ外交的秘密を入手していたかだ。
 リーヴェンは、1812年には、ロシアはナポレオンよりも深く考えていたと主張する。
 彼等は、ナポレオンが、勝つためには、在来型の正規戦による機動と火力を用いた撃破作戦を行う必要があることを知っていた。
 だからこそ、その代わりに、彼等はフランス軍に、いやがらせ、終わることなき小競り合い、そして悪路、あるいは道なき道を総計で数百マイルに及ぶ歩行を与えたのだ。
 ロシアは、自分の農場や村に火をかけ、侵攻者に資源を与えないようにした。
 それらすべての結果、巨人たるフランス軍は兵站上の悪夢に直面し、飢餓と敗北がもたらされた。
 リーヴェンは、ロシアの軍事面での進化についても描写する。
 1806〜07年の大災厄的作戦から始まり、ロシアは着実に訓練、編制、統率を改善した。
 1812年の(仏露双方にとっての)凄まじい諸戦闘の後、モスクワで再編成されたロシア政府は、軍の再建に着手した。
 1813年から14年にかけての諸会戦では、ロシアは、訓練場群と補給所群からその多くは600から1000マイルも離れていたところの、東欧において、50万人の兵士を展開し続けた。
 ロシア政府は、この前方展開を、長距離の兵站路沿いに補給所群を設けることと、プロイセン及びポーランドの政治勢力と合意を得ることによって維持したのだ。・・・
 そして最後に、リーヴェンは、1814年のロシア軍は、欧州へ、これまでとは異なった役割、すなわち、解放者として、その西側の隣人達をナポレオンによる圧政的外国支配から解き放ったのだ。
 もとより、ナポレオン及びナポレオン軍の最終的敗北は、英国とプロイセンの兵士達の手で達成されたことは事実だが・・。・・・」
http://www.historynet.com/book-review-russia-against-napoleon.htm

4 終わりに

 要するに、ロシア軍は、ナポレオン軍を、戦略、戦術、情報、兵站のすべてにおいて上回っていたから勝利した、ということです。(装備には顕著な差はなかったのでは?)
 これは、恐らく、ロシアの皇帝や皇帝を支えた軍事・非軍事のエリート層・・その大部分は外国系や外国人との混血・・の集団的な能力が、軍事的天才ではあっても、たった一人であったが故に自ずから限界があり、また長年の活動により精神的に疲弊してきていたナポレオンを凌駕するに至ったからでしょう。
 では、そんなロシアが、どうしてそれから90年弱後の日露戦争には敗れたのでしょうか。
 幕末維新の激動期を経験したエリート層だけでなく兵士や銃後の国民達の力を結集できた自由民主主義的日本には、エリート層しか結集できなかったロシアでは一歩及ばなかった、ということでしょうね。
 ついてに言えば、現在のロシアが見る影もないのは、戦後のドイツが見る影もないのと同じであり、ドイツがユダヤ人に対するジェノサイドによりエリート層の多くを失ったのと同様、ロシアが内戦やスターリンによる粛清を通じ、エリート層の多くを失ったためである、と考えられます。

(完)