太田述正コラム#3938(2010.4.9)
<パール・バック(その4)>(2010.8.2公開)

 (4)エピローグ

 「・・・ある意味では、バックは死ぬ以前に、不朽の存在であり続けつつ、既に死んでいたのだ。
 <とはいえ、>彼女の人道主義的キャンペーンは、彼女の財団と・・・ウェルカム・ハウスにおいて、生き続けている。
 彼女のもの凄い数の著作の幾ばくかはゴミだとしても・・。・・・
 ・・・<また、>彼女は、1925年に、支那は「必ず将来アジアのリーダーになる」と記した<が、この予言は的中しつつあると言ってもよいかもしれない>。・・・
 ・・・<バックは、>物議を醸した著名人にして、米国では容共派として、中共では反共主義者としてブラックリストに載り、人種的平等、避妊、そして女性と障害者に対する差別禁止のキャンペーンを張った人物だった。
 <すなわち、>「30年間にわたって彼女の声は米国政治における正気と平衡感覚<そのもの>だった。」
 にもかかわらず、彼女は1970年代と80年代においてフェミニスト達からは見向きもされなかったし、彼女の著作は知識階級からは一般的に無視された。
 また、<遡れば、>彼女がノーベル文学賞をとった時には、知識階級は嗤ったものだ。・・・
 彼女が取り上げたのは、貧困に苦しむ支那人達の生活だった。
 彼女は、彼等の寛大さ、ストイシズム、性についての天然の開けっぴろげさ、そして、英語の印刷物へと転置したところの、彼等の思い込みとおしゃべりのパターン、を好み、記録した。
 彼女の第一言語は漢語の方言であり、彼女の少女としてのイマジネーションは料理女から借りた大衆的な「低級」漢語フィクションによって駆り立てられた。
 それと平行して、彼女はチャールス・ディケンズの諸著作を読んだ。
 スパーリングは、バックは、自分にが書いたフィクションで、ディケンズが19世紀のロンドンについてやったことを20世紀の支那についてやったと主張する。
 しかし、その彼女は、その一方で、宣教師スタイルの優越感でもって<支那で>彼女を取り巻く汚さと悪臭についての手紙を書き綴ることができたし、彼女の<小説の中に登場する>人物達は支那人ではあったが、彼等はしばしば彼女自身と彼女の家族の様々な関係の写し絵だった。
 彼女の父親であるアブサロム・サイデンストリッカーは、<支那に赴いていた>悲しむべき十指に及ぶ原理主義的な米南部の長老派の宣教師達のうちの一人であり、自分自身とその子供達とその「プロト・フェミニスト」たる不幸な妻とを犠牲にして、数百万の支那人達を改宗させることに狂信的に自分を捧げていた。
 パール・バックは、攻撃的布教は、無益でひどく「厚かましい行為」だと考えるようになった。
 スパーリングは、長老派の正統的教義を「儒教・道教・仏教によってその諸慣習と考え方の中に維持されてきたところの古からの高度に文明化した文化」に押しつけようとすることは、「島国根性的不条理性」である、と記している。・・・」(F)

 「・・・<米国に居を移してからの>彼女の夥しい著作は、良く言って出来映えにムラがあるが、<少なくとも言えることは、支那人達の軽侮を掻きたてたところの、フィクションの情熱的なリアリズムに対する彼女のイデオロギー的確信は跡形もなくなっていた<ということだ>。・・・
 揚子江沿いの鎮江(Zhenjiang)にパール・バックの子供時代の家がある。
 そこは、かつて<文化大革命時代に>群衆が彼女に対して脅迫や侮蔑の声をあげた場所だが、現在では彼女を称える博物館になっている。・・・」(A)
 
 「・・・『大地』とそれに続くシリーズは、支那を米国と西側世界に目に見える存在にし、それまでは顔がなかった<中華>帝国における隠された生活の真の姿を露出させた。
 バックの作品は金もうけのための粗製ばかりだったし、彼女のつくった映画は真の東洋人を描いた部分は少なかった。
 これらは衝撃的なことだ。・・・
 しかも、彼女は、宣教的なことを自身がやった。・・・
 パールが宣教的傲慢さ・・聖書の言葉だけ与えてすべてはうまくいくという傲慢さ・・に反対したことは知られている。 
 しかし、それならばどうして、彼女は、宣教的文脈の中で働いたり、宣教がよりうまく行くことを欲したりしたのだろうか。
 彼女の<最初の>夫の実験畑群だって、最初は教会がそのためのカネを出していた。
 このようなことから、何か肝腎のことが隠されている感が否めない。
 すなわち、彼女の<宣教についての>懐疑主義や支那人の物の考え方に対する彼女の心底からの敬意とが、ついに乗り越えることができなかったところの、宣教的なものへの彼女の傾倒が・・。
 <結局のところ、>この女性ができそこない(mistake)であったことは極めて明らかだ。・・・
 <そもそも、この伝記の著者である>スパーリング自身、余りバックを高く評価していないように見えるのは奇異な感じを受ける。
 ある極めて著名な毛沢東心酔者たる支那評論家・・ちなみに、バックは毛について疑問を抱いていた・・が、「パールは極めて高い知性を持っていたがそれを使わなかった」と語ったという話をスパーリングは<わざわざ>引用している。
 次いで彼女は、バックの本の売れ行きが良かったのは、「口あたりのよい、陳腐なご機嫌取りの大衆マーケティング技術」のおかげだったとし、「<パールは、>自分の教師然とした意図をオブラートにくるんで伝えるだけのユーモアの精神を持ち合わせていなかった」と指摘している。・・・」(E)

3 終わりに

 バックの伝記の著者にしても、その書評子にしても、おしなべてバックに厳しいなあ、と思われたのではないでしょうか。
 ご紹介が遅れましたが、著者であるスパーリング(1940年〜)は、英国の著名なジャーナリストにして伝記作家であり、彼女が書いた画家のマチスの伝記で、英国の直木賞とも言うべきWhitbread Book Awardsを授与された人物です。(ちなみに英国で芥川賞と言うべきものはBooker Prizeです。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Hilary_Spurling
(4月9日アクセス)
 そして、上記書評が載ったのも、英国の新聞や雑誌ばかりであり、恐らくは書評子も全員英国人でしょう。
 その彼等が、濃淡はあるけれど、おしなべて、バックを、鼻持ちならない米国人の典型として、軽侮の念をもって見ている、ということです。
 それにしても、半世紀前の小6当時(1960年)の私のバック観が、(現在の、そして恐らくは当時の)英国知識層のそれと一致していたということは、いささか驚きです。
 一体それは、私が小さなナショナリストであったためか、それともカイロでのイギリス的教育のせいなのか、いずれにせよ、私の小1〜5の海外経験が、私の物の見方の基調を形成したことは、ほぼ間違いがないように思います。
 
(完)