太田述正コラム#3928(2010.4.4)
<カルタゴ(その2)>(2010.7.19公開)

 <そうではないとする学者もいるが、>これは、カルタゴ対ギリシャ陣営の直接的な紛争では決してなかった。
 そもそも、シラクサの力の増大を心配したシチリアのギリシャの都市国家群とカルタゴはしばしば手を握った。
 より一般的に言えば、この島のギリシャ人とカルタゴ人と土着のコミュニティーの人々は、互いに通婚したし互いの神々を崇拝しあったし、交易をしたし、戦争をした一方では政治同盟を結んだのだ。
 実際、いわゆる厳しい競争関係にありつつも、深くかつ長期的な<協力>関係が存在していたことが、驚くほど凝集的で相互関係的な中央及び西部地中海が創造される原動力となった。・・・
 <カルタゴでは、>貴族的エリートたるメンバーによって構成された104人法廷(Tribunal of One Hundred and Four)と呼ばれた機関が、後に文官や軍事司令官の行状を監督するとともに一種の最高憲法裁判所として機能するようになった。
 カルタゴ国家の頭脳の部分は、毎年選挙される2人の上級行政官であるスフェッテ(Suffete)を頂点として、あらゆる領域の下位の下僚達と特別官(commissioner)達が政府業務の異なった側面・・公共工事、徴税、国庫の管理といったもの・・を監督していた。
 <やがて、>市民のメンバー全員が出席できる民衆集会も導入された。
 しかし、アテネの政治学者のアリストテレスのお墨付きがあるのだが、その権限は極めて限定的だった。
 だからこそ、アリストテレスは、BC4世紀のカルタゴの憲法は地中海世界の中で最もバランスのとれたものだと考えていたのだ。
 しかし、その後、ギリシャの多くの国家と同様、民衆集会の権限が顕著に大きくなり、カルタゴは民衆扇動(demagogy)の道を駆け下りたという嫌疑をかけられるに至る。・・・」(E)

 「・・・「ポエニ」という名前はカルタゴ人達が自分でつけたものではない。
 それは、ローマ人によってつけられた軽蔑的な名前であり、ギリシャ語の「フェニキア的」という言葉から来ている。
 (カルタゴという言葉は、実際には、フェニキア語のQart-Hadasht、その意味するところは「新しい都市」、から来ている。)
 伝説によれば、この都市は、(ローマより61年早い)BC814年に、(ティレから兄のピグマリオン(Pigmalion)によって追い出された)エリッサ(Elissa)王妃によって創建されたとされる。
 現代考古学ではこれは確認されていない。
 しかし、この都市に少なくともBC760年には住民がいたこと、そしてこの都市とティレとの紐帯は強かったこと、は明らかになっている。・・・」(B)

 「・・・とりわけ宗教的慣行において明確なセム的文化の諸様相を維持しつつ、カルタゴ文化は、ギリシャとエジプトはもとより、様々な異なった伝統を受け継いでいた。・・・」(C)

 「・・・<さて、>カルタゴの最終的な破壊を正当化するため、勝利者<たるローマ>は、この都市とその文明を、退廃的で残酷で東洋的であってローマの道徳的対蹠物である、と描写せざるをえなかった。
 すなわち、自分達の勝利は摂理によってあらかじめ定められていたというわけだ。・・・
 ・・・カルタゴでは、実際、子供を犠牲に捧げる慣習が行われていた。
 人道的な(ギリシャ人たる)プルターク(Plutarch)は、金持ちのカルタゴ人の両親達が時々街の子供達と自分達の子供達とをカネを払って交換し<、街の子供達を犠牲に捧げ>たと記している。
 「・・・マイルズは、「犠牲が捧げられる広場では大きな音楽が奏でられ、犠牲者達の叫び声が聞こえないようにされた」と付け加える。・・・

 ・・・ローマとカルタゴは、3回のポエニ戦争において、相互に間歇的に120年近くにわたって闘い続けた。・・・」(B)

 「<戦争に際しては、>捕虜達は殺戮され、収容者達は拷問を受け、街は破壊され、住民は奴隷として売られた。・・・」(C)

 「・・・BC218年からBC216年にかけての3つの戦いで、ローマは100,000人を超える兵士を失った。
 それは、恐らく<当時の>成人男子総数の半分にも及んだだろう。
 <しかも、>南イタリアにおけるローマの同盟者達はローマに背いた。
 それでも、ローマは持ちこたえた。
 そのわずか15年後のBC202年、ローマの将軍スキピオ・アフリカヌスは、ハンニバルをザマの戦いで打ち破り、ローマはカルタゴの門の前に押し寄せたのだ。・・・
 ハンニバル戦争は、その6世紀後に野蛮人達が凍り付いたライン河を渡って西におけるローマ帝国を終焉へと導いたところの一連の出来事の口火を切るまでは、ローマの力への最後の深刻な挑戦となった。・・・」(C)
 
 「<そのうち、>二番目の戦争がハイライトだった。
 ハンニバルと彼の象達は、トラシメネ(Trasimene)(BC217年)とカンネー(Cannae)(BC216年)において壊滅的な敗北をローマに与え、もう少しで世界超大国になろうとしていたローマを打ち破る寸前まで持って行ったのだ。
 象たちは、いつもどちらかと言えばお荷物だった。
 それは、アトラス山脈に棲息していた、現在では絶滅した種で、アフリカの茂みに棲息する象より小さくて従順だった。
 ローマは、その若干を捕獲したが、戦争に用いようなどとは全く考えず、試合に出場させ、見せ物にして娯楽的に殺したものだ。
 象より重要だったのは、ハンニバルの素晴らしい統率術とその目もくらむような予測不可能性だった。
 あらゆる準則に反し、彼は時々自陣の中央を最強にするどころか最弱にした。
 この中央はローマの重装歩兵の攻撃によって簡単に崩壊し、彼等はどんどん前進する。
 そこをカルタゴ軍の両側翼が前進して封鎖するとローマ軍は周囲を取り囲まれていることに気づく。
 これがカンネーで起こったことだ。
 それは「ローマの最大の軍事的大災厄」であり、一日で70,000人ものローマ軍兵士が死んだ。
 20世紀になるまで、この損耗率を超える戦闘が起きることはなかった。
 ハンニバルの仇敵は、彼と同等に素晴らしいローマの将軍、スキピオ・アフリカヌス(Scipio Africanus)だった。
 象の突撃に対処するため、彼は自分の戦列を縦隊に分かれさせる訓練を行うことによって、「回廊」を何本もつくり、そこを、いななく獣たちを危害を加えることなく通り過ぎさせた。
 彼は心理戦にも通暁していた。
 戦闘前に自信のほどを見せる最高のショーとして、決定的な202年のザマ(Zama)の闘いの前に、彼は、「捕虜になっていたカルタゴ軍の斥候達にローマ軍の陣形をその陣営を自由に歩かせて偵察させ、発見したことをカルタゴ軍の将軍のために自由に持ち帰らせた。」
 20年間近くにわたってローマの恐怖の的であったところの、ハンニバルは、敗北後、東方への亡命を余儀なくされ、最終的にはBC183年にビシニア(Bithynia。現在のトルコ北西部)で自殺した。

 しかし、カルタゴ自身はまだ続いていた。
 古のローマの共和派の中で最も容赦なく、かつ最も恐るべき大カトー(Cato the Elder)は、何度も歴史上最も有名な動名詞補文(gerundive)たる「カルタゴは滅ぼされなければならない」を叫んだとされる。
 ある時、大げさな身振りで、彼は、熟したイチジクを彼のローブから取り出し、同僚の元老院議員達に、それがわずか3日前にカルタゴでもぎ取られたものであると伝え、「この都市が繁栄を回復しているだけでなく、いかにローマに近いか」に注意を喚起した。
 <こうして、>カルタゴは最終的にBC146年に破壊された。
 この都市が焼かれたことは、考古学者達によって「不吉な60cmの厚さの黒い地層(tidemark)」の形で確認された。
 マイルズは、その略奪のものすごい絵柄を描く。
 燃えていた建物の多くには女性達と子供達が避難しており、「ひどく負傷し火傷を負いつつも彼等はまだ生きており、彼等の周りの不快な音調に彼等の哀れな叫び声が加わった」と。・・・

 ・・・BC146年には、ローマは地中海の一方の端にある偉大な都市、コリント(Corinth)も破壊した。
 それは「ローマの世界大国としての時代の到来を告げるにぴったりの黙示録的ファンファーレだった。
 ハンニバルの敗北とこの都市のBC146年の破壊により、アウグストゥス(Augustus)がこの都市を1世紀後のBC29年に再建したにもかかわらず、カルタゴの文化はほとんど何も残っていない。
 この都市は、イスラム軍が最終的かつ決定的に破壊したAD698年に再び死に<、現在に至っている>。・・・」(B)

(続く)