太田述正コラム#3926(2010.4.3)
<カルタゴ(その1)>(2010.7.18公開)

1 始めに

 カルタゴ(Carthage)についての新著が出たとなれば、ご紹介しない手はありません。
 リチャード・マイルズ(Richard Miles)の 'Carthage Must Be Destroyed(カルタゴは滅ぼされなければならない)' です。

A:http://www.ft.com/cms/s/2/911bdc24-384d-11df-8420-00144feabdc0.html
(書評。以下同じ)(3月30日アクセス)
B:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/book_reviews/article7067977.ece?print=yes&randnum=1270199685060
(4月2日アクセス。以下同じ)
C:http://www.bbchistorymagazine.com/book-review/march-issue-need-link-carthage-must-be-destroyed
D:http://www.economist.com/culture/PrinterFriendly.cfm?story_id=15767411
E:http://www.historytoday.com/MainArticle.aspx?m=33818
(本人によるコラム)

 なお、著者のマイルズは、ケンブリッジ大学の古代・中世初期史の講師です。
http://www.hist.cam.ac.uk/academic_staff/further_details/miles.html

2 カルタゴ

 (1)序

 「・・・カルタゴの伝統的に言われてきた創建時期はBC814年だが、その後、3世紀以上にわたる交易と拡大の後、ローマがマイルズの記述に登場する。
 両勢力間の最初の条約がBC509年に締結される。・・・」(A)

 「・・・カルタゴ人の前にはフェニキア人がいた。
 彼等は、現在のレバノンのティレ(Tyre)出身の偉大な商人達だった。
 アッシリア人の嗜好を充足させるために、彼等は銀を運ぶルートを開発し、ガデス(Gades =Cadiz)等の数々の都市を建設した。
 しかし、彼等の最も偉大なる遺産は、現在のチュニジアの地に設けた植民地だった。
 その令名はすぐにその両親のそれを凌ぐこととなる。・・・
 ヴェルギリウス(Virgil)の『アエネーイス(Aeneid)』では、カルタゴの女王ディドー(Dido)とヴィーナスの息子にしてローマの伝説的祖先たるアエネーイス(Aeneas)の間の挫折することが運命づけられていた愛の交歓<(コラム#2789、3269、3878)>が描かれている。
 彼は、トロイからイタリアへの<帰りの>旅の途中、彼女の都市の岸辺に打ち上げられる。
 皮肉なことに、アエネーイスはディドーを捨て去って自分のあらかじめ定められた運命を受け入れるのだが、これはカルタゴ的裏切りの特徴そのものだ。・・・」(D)

 「・・・地理的にはアフリカに位置していたが、カルタゴはこの点を除いてあらゆる意味で東方的、すなわちレヴァント的でありフェニキア的だった。
 彼等は、セム系言語をしゃべり、バール神(Baal)とアスタルテ神(Astarte)を崇拝した。
 この二つの神様は、初期のイスラエルの民によって毛嫌いされたところだ。
 そしてマイルズは、我々に、スペイン、サルディニア、そしてシチリアを含む南欧の広大な一帯を初めて植民して文明化したのはローマではなくカルタゴであったことに注意を喚起する。・・・」(B)

 「・・・カルタゴは(既にBC8世紀初期に)創建されており、地中海中部ないし西部のいかなるギリシャ人の都市よりも古い。・・・
 戦略的に、この場所はこれ以上のものはないと言ってもよかった。
 というのは、それは、地中海の最も重要な二つのルートである、スペイン南部の鉱山で産出された銀をティレに運ぶ東西ルートとギリシャ、イタリア、シチリアと北アフリカを結ぶ南北のティレニア(Tyrrhenian)海の同等のルートの結節点に位置していたからだ。・・・
 最初のうちこそ奢侈品はレヴァント、エジプト等、近東地域から輸入されていたが、BC7世紀の中頃からは、製陶所、紫染色製品や金属加工の作業場等からなる、カルタゴの城壁外の産業区域が確立してからは、カルタゴはその主要な生産者となった。
 そして、カルタゴは、テラッコッタの小立像、仮面、宝飾類、霊妙に湾曲した象牙や装飾を施されたダチョウの卵の主要な生産者となり、それらは西部のフェニキアの諸植民地全域に輸出された。
 BC6世紀の最初の10年の間にティレが経済的・政治的勢力として衰えると、カルタゴが中央及び西部地中海における古からのフェニキアの諸植民地のリーダーシップをとるようになった。・・・
 BC4世紀中には、カルタゴは世界で初めて4段オールのガレー船(quadrieme)を開発したが、これはそれ以前の200年間、海上戦争を支配した3段オールのガレー船(trireme)<(コラム#3449)>よりも大きく強力だった。
 シチリアの西岸のマルサラ(Marsala)沖の海底に横たわっているカルタゴの様々な船の残骸を研究した海洋考古学者達は、複雑な設計にもかかわらず、それが容易かつ迅速に組み立てられるよう、船のパーツ一つ一つに文字が記されているのを発見して驚愕した。
 カルタゴは、要するに、組み立て式(flatpack)戦艦を開発したのだ。
 西部のフェニキアの諸植民地に対するカルタゴのリーダーシップが確固たるものになると、他の西部のフェニキアの植民地において、カルタゴ文化の様相の増大する影響が明確に見出されるようになる。
 例えば、カルタゴでしゃべられていたレヴァントの方言たるポエニ語(Punic)の採用、及び、カルタゴで好まれていた奢侈品や宗教慣行の流行だ。・・・
 創建されてからの最初の数世紀は、カルタゴは背後地が極めて限られていたことが足枷となった。
 つまり、カルタゴは食糧の多くを輸入しなければならなかった。
 それがBC6世紀には変わり始めた。
 というのは、カルタゴが、時々そのリビアの隣接諸勢力の領域へと積極的に領土拡大を行ったからだ。
 夥しい数の建物付農場や小さい町が新しい地に設けられ、その結果カルタゴは、自分の所の人々のためだけでなく、輸出用に食糧やワインを生産する大農業国となった。
 カルタゴは一定の農業技術の向上に関しても名高い。
 ポエニ荷車(tribulum plostellum Punicum=Punic cart)なる高度に効果的な脱穀機がそうだ。
 興味深いことに、このような経済的かつ政治的優越にもかかわらず、第一次ポエニ戦争前の最後の何十年かまでは、カルタゴは帝国を形成しようとはしなかった。・・・
 その後の2世紀、カルタゴは、自分自身と同盟諸国の利益を、とりわけ、同島における最も強力なギリシャ人都市国家たるシラクサ(Syracuse)による浸食から守るために、何度も軍をシチリアに派遣しなければならなかった。
 この二大勢力の間の軍事行動は、どちらの側も相手方に警戒を怠らない、「冷戦」を何度も挟む形で続いた。

(続く)