太田述正コラム#3908(2010.3.25)
<十字軍とは何だったのか(その2)>(2010.7.14公開)

3 本からの抜粋

 「「深刻な知らせがエルサレム周辺の地域から届いた…。
 神とは全く無縁の人種…がキリスト教徒の地に侵攻したというのだ…。
 彼等は、神の諸教会をたたき壊したり、キリスト教徒を自分達の典礼の奴隷とした…。
 彼等は、苦しめようと選んだキリスト教徒達の臍のあたりを切り裂き…引きずり回し、鞭で打った上で、はらわたを全部摘出された状態で地上に横たわる彼等を殺した…。
 キリスト教徒たる女性に対して行われた言葉を絶する暴力については語ることすらできない。
 これに復讐する使命は君達以外の誰にあるだろうか?…
 <エルサレムの>聖墓教会への道を行け。
 あの地を救い、そこを君達自身によって統治せよ。
 あの地には、聖書が言うように、乳と蜜が流れているのだ…。
 この道を行き、君達の罪の赦免を受け、天の王国の褪せることのない栄光を保証されよ。」
 法王ウルバンがこれらのことを言い終わると、…全員が一斉に叫んだ「Deus vult! Deus vult!(神はそれを欲し給う、神はそれを欲し給う)」と。・・・
 法王ウルバン2世は、第一次十字軍を1095年11月に中央フランスのクレルモン(Clermont)で開始した。
 その4年後、驚くべき艱難の旅に耐えて、自称「キリストの騎士達」は、1099年7月15日、エルサレムに到着した・・・。
 ・・・<実は、>十字軍事業は、第一義的には、西欧内部の諸問題を正す意図を持っていた。
 カトリック教会の長として、ウルバンは、ラテン・キリスト教圏の全員の精神的福祉に責任を負っていた。
 その欧州は、種々の悪に取り囲まれていた。
 <欧州は>暴力と無法だらけであり、当時の最も強力な世俗的統治者たる、ドイツの皇帝ハインリッヒ(Henry)4世は、彼が法王の権威に抗ったために教会の外に放り出され、破門されていた。
 ウルバンは、かかる混沌の根本原因は、信条の減損にあるのであって、平和と安定を回復するのは自分の役割である、と考えた。
 これを達成するためには、精神的関心が巧みな政治的計算と混ぜ合わされなければならなかった。・・・
 ・・・ウルバンは、北フランスのシャンパーニュ州出身であり、貴族の血統だった。
 このやんごとなき氏素性と教会における成功裏のキャリアとが組み合わされたおかげで、彼は騎士階級の希望と恐れへの直接的洞察ができ、このことから、どうして十字軍事業がかくも多くの人々の願望を充たしたのかを部分的に説明できる。
 彼は、巡礼や神の敵に対する聖戦の観念、といった中世社会においてお馴染みの様々な要素と、前例のない救済の提供とをつなぎ合わせた。
 この結合が、西欧の戦士達を熱狂させることは、ほとんどうけあいだった。・・・
 ・・・巡礼は、時にはひどいめにあったけれど、何十年にもわたって聖なる地でキリスト教徒がイスラム教徒から組織的迫害を受けた事実がなかったことも確かだ。
 しかし、ウルバンの熱烈な修辞は、フランスの騎士達からの応答を求めた。
 彼は、復讐を呼びかけた。
 復讐の概念は、騎士達にとって第二の天性になっていた。
 というのは、彼等は、それを、道義的正しさの重みでもって支援されつつ、不正義を力によって正すことを倣いとしていたからだ。
 聖アウグスティヌス(Augustine)のような教会法の権威達を引用することで、ウルバンと彼の取り巻きたる顧問達は、暴力が一定の状況下においては道義的に正しい行為であるとみなせるという理屈を構築した・・・。
 疑いもなく、西側世界の暴力的戦士達は、神が眉を顰める行為をたくさんやってのけていたが、ウルバンは、彼等にひどい運命を回避する機会を提供したのだ。・・・
 聖墓教会と東側世界のキリスト教徒とを解放せよとの呼びかけは、よく知られていた形、すなわち、巡礼として形作られた。
 巡礼は、中世の生活における根本的様相だった。
 聖人に助けを求めるという考えは、日常的なものであり、人々は、これらの天の住人達に、収穫、豊饒、保護、そして罪の赦しについて助けを求めた。
 聖人の存在は、遺品、聖人の身体の一部、あるいは聖人たる男女の生涯と関係のある物に顕現し、神聖なる助けへの見えない通路を提供した・・・。
 巡礼の究極的な目的地は、聖なる地・・キリストが生き、死んだ場所・・だった。
 キリストは天国に昇ったため、尊崇すべきその遺骸がなかったことから、焦点は、彼の存在と死が足跡を残した様々な場所、とりわけ彼の墓であるエルサレムの聖墓だった。
 <よって、>聖なる地、とりわけこの場所が、第一次十字軍の主要目標となった。・・・
 だから、第一次十字軍は、キリスト教徒による解放と同時に、部分的にはキリスト教徒による植民地化だった。
 この機会に乗じる用意のある者達にとっては、それは新しい生を提供した。
 しかしながら、やってみた結果、夥しい数の者達が十字軍騎士になろうとしたけれど、東側にその後もとどまることを選択した者は比較的少なかった。・・・
 1095年3月にコンスタンティノープルの皇帝アレクシウスの使節が到着し、小アジアのイスラム教徒に対する助力を呼びかけた。・・・
 1054年に、教義上の紛争と、より端的には、コンスタンティノープル総主教に対する法王の相対的権威に関する紛争とがカトリック教会と正教会との間の分立(schism)を引き起こしていた。
 この状況は、今日においてもなお続いている。
 この分裂にもかかわらず、この二つの陣営は接触を続け、ウルバンは十字軍を、<両陣営間で>より良い関係を醸成する機会と見た。
 ただし、ウルバンの見地からは、ローマは兄貴分だった。
 というのは、カトリック教徒は、その正教の兄弟達に助けを提供する存在だったからだ。
 実際、ウルバンは、彼の「息子」であるビザンツ帝国皇帝の父の役割を演じ、ローマをコンスタンティノープルの母と見た。
 ウルバンと彼の取り巻き達は、十字軍への呼びかけを訴える最良の方法はどうあるべきかを考えた。
 時代は、マスコミュニケーション以前であり、視覚的にできるだけ大きな衝撃を与えることが肝要だった。
 これは、幾多の公的セレモニーを華々しく執り行うことを意味した。
 クレルモン公会議(Council of Clermont)は、注意深く宣伝され、フランス、スペイン、及びドイツの各所の教会関係者に招待状が送付された。
 ウルバンは、クレルモンを、それが中心的位置にあったことから選び、この公会には、13人の大司教、80人の司教と枢機卿、そして90人の修道院院長が集まった。・・・」(B)

4 終わりに

 現在の世界も、十字軍が始まった当時と少しも変わっていないじゃないか、という感想を持たれた方が結構多いのではないでしょうか。
 大事なことは、キリスト教なるイデオロギーを、積極的に統治と征服のために用いた、という意味において、ウルバン2世は、近現代欧州文明の前駆的原型を創造した人物であった、ということです。
 私は、ウルバン2世は、そのヒントを、かつての勃興期のイスラム教から得た、と想像しているのですが、このことを検証してくれる方、どなたかいらっしゃいませんかね。

(完)