太田述正コラム#3906(2010.3.24)
<十字軍とは何だったのか(その1)>(2010.7.13公開)

1 始めに

 十字軍についての新著が出たのでご紹介しましょう。
 ジョナサン・フィリップス(Jonathan Phillips)の 'HOLY WARRIORS A Modern History of the Crusades' です。

A:http://www.nytimes.com/2010/03/14/books/review/Ormsby-t.html?ref=world&pagewanted=print
(3月14日アクセス)(書評)
B:http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704131404575118161342955410.html#
(3月24日アクセス。以下同じ)(本からの抜粋)
C:http://www.literaryreview.co.uk/irwin_11_09.html
(書評。以下同じ)
D:http://www.guardian.co.uk/books/2010/jan/03/review-of-the-crusades-by-thomas-asbridge-and-holy-warriors-by-jonathan-phillips (コラム#3816で既出)
E:http://www.bbchistorymagazine.com/book-review/holy-warriors

 ちなみに、フィリップスは、ロンドン大学Royal Holloway Collegeの十字軍史の教授です。(C)

2 書評から

 (1)この本について

 「・・・フィリップスは、この本を一般の読者を対象に書いた。・・・
 彼は、人間像や視覚に訴える出来事に焦点をあてる。・・・」(C)

→十字軍がらみの本は英語圏の読者に人気が高く、次々に出版されます。
 逆に言うと、十字軍に関することは、滅法詳しい人が英米等には多いということであり、日本人としても、十字軍について、できるだけ機会をとらえて勉強し、知識を確実なものにしておくことは、彼等との交流上も有意義でしょう。(太田)

 「・・・フィリップスは、十字軍について幅広いとらえ方をし、聖なる地に係る話に限定しない。
 彼は、スペインとバルト海地域の十字軍についても、ランゲドック(Languedoc)の異端者達に対して行われた十字軍<(=アルビジャン十字軍。コラム#1150、1839、2022、3041、3678)>についても記す。
 子供十字軍(Children’s Crusade<。1212年に起こったとされるが真偽不明
http://en.wikipedia.org/wiki/Children's_Crusade (太田)
>)についても、短いけれど同情的な扱いがなされる。
 極めて重要なことは、フィリップスが彼の本を聖なる土地からのキリスト教徒の駆逐で終えていないことだ。
 それに引き続く2つの章で、彼は1291年より後の十字軍を扱う。
 テンプル騎士団<(コラム#3812、3814、3816)>の抑圧、そしてその後十字軍がいかに誹謗され記憶されて行ったか、等・・。・・・」(E)

 (2)本の内容の骨子

 「・・・十字軍騎士達の信心を全くの偽善だと片付けたい気になりがちだ。
 しかし、実際には、彼等の信仰は彼等の野蛮性と同じく純粋だった。・・・
 信仰が聖戦の核心(heart)に盤踞していた<のだ>・・・。
 これをもって、あらゆる宗教的信条の核心に矯正不能な致命的嘘が盤踞していることの証明だという者もいる。
 しかし、キリスト教側とイスラム教側のどちらにも同じくあったところの、身の毛がよだつ屠殺への熱情が、同時に自己犠牲、純粋なヒロイズム、そして希には単純なる人としての親切さへの異常な努力さえ、を鼓吹した。・・・」(A)
・・・(A)

 「・・・フィリップスは、<当時の>「宗教的信条に充ち満ちた」社会を描写する。
 そこでは、地獄に落とされる天罰への恐れを誰もが抱いていた。
 日常生活は<一人一人の人間にとって、>永久(とこしえ)の先まで影響を及ぼす障害だらけだった。
 事実上すべての教会に、地獄の恐ろしさを描くフレスコ画ないし彫刻があった。
 悪魔達が悲鳴を上げる罪人達の目をくり出し、生きながら人間が皮膚を剥がされ、永久に火で炙られる。
 それが、救われた者達のための天国の平和、静謐、そして安全と対照される。
 教会のメッセージは恐ろしいほど単純だった。
 罪の帰結を免れることはできないと。
 ウルバン(Urban)2世<(1035?〜99年。法王:1088〜99年
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Urban_II (太田)
)>は、野心的で容赦ないフランス人であり、十字軍運動を素晴らしい新しい方式で開始した。
 十字軍にでかけることですべてご破算にせよと<訴えたのだ>。
 職業上つきものであったところの、戦士と従者達の、すべての悪しき、かつ猛々しい不行跡は消し去られると。
 騎士階級にとっては、「一番うまくできていた部分は、彼等が引き続き戦うことが可能であったことだ。ただし、今度は彼等のエネルギーが同輩のキリスト教徒にではなく、神の敵に向けられるだけだ、というわけだ。」
 では、一体誰が神の敵なのか?
 そのうちの明白な一つはセルジューク・トルコだった。
 彼等は、ビザンツ帝国の地に入り込んで来ていた。
 ウルバンの武器をとれとのアッピールのタテマエ上の言い訳は、コンスタンティノープルの皇帝アレクシウス(Alexius)から要請があったというものだった。
 彼のアナトリア(現在のトルコ東部)の領土は、この半遊牧民的侵攻者によって奪われていた。
 しかし、セルジューク・トルコによる蚕食は何十年も続いていたが法王庁は<それまで>さして気にもかけていなかったし、キリストの受難と磔刑と墳墓の地である聖なる都市、エルサレムは、4世紀にわたって何らの醜聞なくイスラム教徒の支配下にあり、キリスト教徒の巡礼達は、一般にそこへ自由に旅行できた<というのが実態だ>。・・・
 ・・・フィリップスがはっきりさせたように、カスティリアとカタロニアの支配者達は、スペインのイスラム教徒と何十年も自分達の領有地の増加と商業的特権の確保という限定的な目的のために戦ってきていた。
 しかし、法王ユージニアス(Eugenius)3世<(1080年代末〜1153年。法王:1145〜53年
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Eugene_III (太田)
)>が1145年の第二次十字軍を開始した後は、イベリア半島における戦役は明白に宗教的なものになり、キリスト教徒たる支配者達はあらゆる、法王の免罪符その他の精神的報酬を確保することになる。・・・」(D)

(続く)