太田述正コラム#3862(2010.3.2)
<ショパン生誕200年(その2)>(2010.6.22公開)

2 ジョルジュ・サンドとのこと

 「・・・ショパンの私的生活は、報いられない熱情の心塞がる大河小説だった。
 それは同時に、オルレアン王朝期のパリで、今日と同様の好奇心の対象となった。・・・ 
 唯一の例外がジョルジュ・サンド(George Sand<。1804〜76年>)(注1)との浮き沈みの激しい男女関係だった。

 (注1)決して美人とは言えないが、結婚していた時を含め、ショパンを含む多数の男性と浮き名を流し、レスビアンの気もあった。
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Sand (太田)

 彼女は、傲慢なチェーンスモーカーたる、彼より5歳上のフランスの小説家であり、二人の関係は、おずおずと1838年に始まった。
 彼女は、この天使のような「小さな生き物」の虜になった。
 二人は、彼女の二人の子供と一緒に住み、スペインに旅し、サンドの祖先からのノアン(Nohant)の所有地で至福のうちにぶらぶら過ごした。
 この関係は、1847年に敵意のうちに解消された。
 彼等の関係がどれくらいの期間肉体的なものであったかは議論がある。
 ショパンは、異性との肉体関係が不得手だった。
 彼の若き日以来の男性の友人達への情熱的な手紙と、男性との会合を好む目立った性向は、彼が実はホモであったことをうかがわせる。・・・」(C)

 「・・・ショパンの、・・筆名ジョルジュ・サンドとして最も良く知られる・・フェミニストたる作家のアマンディーヌ・オーロール・リュシル・デュパン(Amandine Aurore Lucile Dupin)との有名な8年間の同棲・・・」(A)

 「・・・この二人の子供の母で、フランスの最も性的に放縦な女性と称された女性は、、彼女にズボンを履くことを認めたところの、創造的精神を持った同僚ということ以外に、自分より5歳年下の精力の弱いポーランド人の中に何を見たのだろうか。・・・
 しかし、彼女は、彼のマジョルカ島での生命を脅かす病とそれに続く病み上がりの期間、単に義務感にかられてという以上に彼を看護した。
 ザモイスキによる、この二人の放縦生活・・サンドが、汗をかきながら、子供達とこの作曲家のピアノとを載せた荷台を綱で引っ張ってっこの島の道路で引っ張り上げたという記述<は圧巻だ。>・・・
 ショパンの生み出したものの頻度や質に、プラスであれマイナスであれ、彼女は殆ど影響を与えなかったように見える。
 しかし、彼女は、ショパンの天才の本来の姿を析出させたと言える。
 彼は、自分のアドリブの鍵盤上の創作を譜面にしなければならないことを面倒くさがる即興<的作曲>家だった。
 彼は演奏家としては最悪だったが、夜、酔っぱらった友人達とともにいて、ピアノを用いて人間性における運命のいたずらをマネし、完全なる甘さの即興的なミニチュアを創造することができる時は最上だった。
 サンドは、彼にこれをやる家庭的な安心(security)を与えたのだ。・・・」(B)

3 ショパン論

 「・・・著者の、ショパンの頭の中と環境に関する洞察によれば、ショパンは不安定で内気で病気がちの人間であって、彼の忠実な礼儀正しさ、謙虚さ、そして溌剌としたユーモアは、その癇癪と親分風と共存していた。・・・
 ショパンの病気で弱った健康は、彼の感情的トラウマを悪化させた。
 彼の人生は、感染による病気、結核、重度の鬱、歯痛、そしてインフルエンザによって継起的に台無しにされた。
 彼が、そう診断されることのなかった、 嚢胞性繊維症(cystic fibrosis)(注2)に罹っていた、という可能性さえある。・・・

 (注2)「・・・遺伝性疾患の一種で、・・・粘液の粘度が高くなる。・・・医療の発達により寿命はのびてきたとはいっても30代である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9A%A2%E8%83%9E%E6%80%A7%E7%B7%9A%E7%B6%AD%E7%97%87 (太田)

 サンドは、ショパンは音楽以外のあらゆることで遅れていて偏屈だと見ていた。・・・」(C)

 「・・・<ショパンは>無宗教だった・・・
 この作曲家が崇めていたのはバッハとモーツアルトであって、音楽におけるロマン主義の「父」であるベートーベンではなかった。・・・」(D)

 「・・・ポーランド人は、ショパンの音楽の中に彼の母国に対する懐旧の情を聴きとり、その作品の中のポーランド的要素を強調する。
 とりわけ、ポーランドの民俗音楽に由来する様式であるところの、彼のポロネーズとマズルカの中に・・。・・・
 しかし、ショパンを自分達のものと主張する輩は他にもいる。
 ドイツ人は、ショパンの音楽はドイツのロマン主義の伝統の一環であると言ってきた。
 ロシア人は、彼をスラブの天才と呼んだ。・・・
 そして、紛れもなく、ナチスドイツは、第二次世界大戦中にポーランドを占領した時、ショパンの音楽に破壊活動的なものを聴き取り、それを禁止した。・・・」(A)

5 終わりに

 私が付け加えることは何もありません。
 ショパンのポロネーズとマズルカをもう一度心静かにお聴きください。(コラム#3416、3588)

(完)