太田述正コラム#3814(2010.2.6)
<テンプル騎士団(その2)>(2010.6.15公開)

 (2)設立目的の喪失

 「・・・エルサレムは<十字軍側と同じ>・・・印欧語族であるところのクルド人たる(B)・・・サラディン(Saladin)<(コラム#547、685)>軍によって1187年に奪われた。
 テンプル騎士団の助けを借りずに、十字軍はこの町を1229年に取り返したが、短期間しかそれは続かなかった。
 1244年にコラズムのトルコ人達(注1)がエルサレムを再占領し、その後、この町は、1917年に英国がオスマントルコから奪うまで、欧米の支配下に戻ることはなかった。・・・

 (注1)コラズム(ホラズム=Khwarezmian)帝国がいつ建国されたかは明確ではないが、セルジュークトルコに属していた中央アジアのコラズム地方の支配権を、セルジュークトルコのスルターンのトルコ人奴隷が1077年に奪取してからしばらくして建国された。やがてモンゴルがこの帝国を1220年に滅ぼすが、コラズムのトルコ人達は北イラクで傭兵として生き延びた。アユーブ朝のスルターンが彼等を雇った際、彼等がエジプトに赴く途中、エルサレムを攻撃した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Khwarezmian_Empire (太田)

 このような状況において、チュートン騎士団(Teutonic Knights)<(コラム#3282)>がプロイセンで行い、また、聖ヨハネ騎士団がロードス島で行いつつあったように、テンプル騎士団が自分自身の修道的国家の設立への関心を示していたこともあり、欧州の貴族達の中で同騎士団を警戒視する者も出てきた。・・・」(D)

 「<ちょっと時計の針を戻すが、>1229年にフリードリッヒ(Frederick)2世<(コラム#545、546、547、552、3128)>がエルサレム国王として自ら戴冠した。(司祭は一人としてこの破門された問題児に戴冠しようとはしなかった。)
 彼は、条約でもってテンプル騎士団が<この町に>戻ることを禁じた。
 これは、予兆だった。
 テンプル騎士団は、国王達の嫉妬心によって叩きつぶされることになるのだ。・・・」(B)

 (3)その悲劇

 「・・・1314年に騎士団長ジャック・ド・モレー(<Jacques de Molay=>James of Molay<。1240/1250頃〜1314年
http://en.wikipedia.org/wiki/Jacques_de_Molay (太田)
>)は無実であると抗議しつつも、フランスのフィリップ(Philip)4世<(1268〜1314。国王:1285〜1314年。the Fair(le Bel)と呼ばれる
http://en.wikipedia.org/wiki/Philip_IV_of_France (太田)
)>によって火あぶりの刑に処せられた。・・・」(B)
 「・・・フィリップ王の圧力の下、法王クレメンス(Clement)5世<(1264〜1314年。法王:1305〜14年
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Clement_V (太田)
>)は、この騎士団を1312年に解散した。・・・

 <どうしてこんなことになったのだろうか。>
 フィリップ王は、イギリスとの戦争により、テンプル騎士団に巨額の債務を負っており、自分の目的のために<テンプル騎士案に関するあらぬ>噂に飛びつく決心をしたのだ。・・・
 1307年10月13日の金曜日・・・、フィリップはモレーとその他のフランス人たるテンプル騎士団員達を一斉に逮捕させた。
 テンプル騎士団員達は、(背教、偶像崇拝、異端、猥褻的祭儀、そして同性愛、金銭的腐敗、そして詐欺、そして秘密非開示等の)いくつもの犯行の嫌疑をかけられた。
 こうして非難された者の多くは、拷問の下でこれら嫌疑を自白したが、不可抗力下でなされたこれらの自白<内容>にパリッ子達は眉を顰めた。
 フィリップからの更なる虐めの後、クレメンス法王は、1307年11月・・・、パストラリス・プレエミネンチアエ(Pastoralis Praeeminentiae)なる法王大勅書を発した。
 これは、欧州の全キリスト教国の君主にテンプル騎士団員全員の逮捕と彼等の資産の没収を指示するものだった。(注2)・・・

 (注2)全君主がただちにこの大勅書を実行に移したわけではなく、とりわけイギリスのエドワード2世は当初実行に移すのを躊躇した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pastoralis_Praeeminentiae (太田)

 クレメンス法王は、テンプル騎士団が有罪か無罪かを決するための法王による聴聞を求めた。
 審問官達の拷問から解放されるや、テンプル騎士団員の多くは彼等の自白を撤回した。
 ・・・しかし、1310年にフィリップはこの試みを中止させ、以前の強制的自白に基づき、何十人ものテンプル騎士団員達をパリで火あぶりの刑に処した。・・・
 法王が自分の希望を叶えなければ軍事行動をとると脅かしたので、クレメンス法王は、・・・ついにこの騎士団の解散に同意した。
 1312年のヴィエンヌ公会議(Council of Vienne)において、彼は、一連の法王大勅書を発した。
 その中には、この騎士団を公式に解散するヴォックス・イン・エクセルソ(Vox in excelso)と、テンプル騎士団の財産の大部分を聖ヨハネ騎士団に移し替えるアド・プロヴィダム(Ad providam)が含まれていた。・・・
 伝説によれば、騎士団長は、炎に包まれながら、クレメンス法王とフィリップ王<の二人>と自分とは、すぐに神の前で会うことになるだろうと叫んだ。
 クレメンス法王は、そのわずか1ヶ月後に死に、フィリップ王は、その年の終わりまでに狩猟中の事故で亡くなった。・・・
 ポルトガルにおけるテンプル騎士団組織のように、単に名前をテンプル騎士団からキリストの騎士団へと変えただけだったものもある。・・・
 <なお、実は、>クレメンスは、この騎士団を1312年に公式に解散させる前の1308年に、テンプル騎士団に対する異端の嫌疑については、罪を赦していたのだ。・・・」(D)

 「・・・テンプル騎士団は、異端でも涜神者でもなかった。
 良いことを多々やってきた彼等は、火あぶりの刑場と彼等の墓に法王の祝福と赦免を携えて赴いたのだ。
 法王は、というより法王庁それ自体、すなわちローマ・カトリック教会の独立そのものが、全体主義的企みを抱いた狂信者たるフランス国王の脅しに晒されていたのだ。・・・
 個々人としては、テンプル騎士団員達は禁欲主義者だったが、騎士団としては、彼等は極めて裕福だった。
 実際、彼等は、欧州と東方との間の資金の移動に非常に長けるようになったことから、すぐに国際銀行家的な存在となった。
 こうして彼等は、近代における最初の銀行家となったのだ。
 彼等の所有地と彼等のカネの富は、貪欲の対象に容易になりえたわけだが、この貪欲は、テンプル騎士団員の中からではなく、フランス国王のフィリップ4世からやってきた。
 彼は、フランスのユダヤ人の富と財産を盗んだ後、彼等を国外に追放し、その後テンプル騎士団に目を付けたのだ。
 それが13日の金曜日の逮捕の真の動機だった。
 このフランス国王は、フランダースにおける戦争とイギリスに対する戦争を続けるためにカネを必要としていた。
 その上、彼は法王庁に対して自己主張をしつつあり、かつ欧州の世俗的なことであれ宗教的なことであり、すべてを決定することができる人物たらんと欲していた。
 それは、拷問と処刑と、当然ながら、必要なプロパガンダと嘘を伴った、テンプル騎士団員達を涜神者、異端、傲慢、かつ貪欲と非難した、一種の土地収用であり国有化だった。・・・
 テンプル騎士団は、自分自身が領有する、例えば、恐らくはキプロスのような、大きくて防衛可能な島を奪取しておれば、黄昏的生存を享受できたかもしれない。
 しかし、彼等は、自分達自身の利益を優先せず、自分達を聖なる地の防衛者としての役割とを自己同一視し、法王と、更なる十字軍を発出することを考えていたフランス国王のフィリップ4世に全幅の信頼を寄せたのだ。
 テンプル騎士団の団長のジャック・ド・モレーと他の高級幹部達がフランスにいたのは、まさにこれらのことを議論するためだったが、彼等とフランスにいた他のテンプル騎士団員全員が、フィリップ4世によって、1307年10月の明け方に逮捕され、涜神と異端の罪で非難されることになったのだ。・・・」(A)

(続く)