太田述正コラム#3812(2010.2.5)
<テンプル騎士団(その1)>(2010.6.14公開)

1 始めに

 ずっと以前(コラム#614で)テンプル騎士団を(聖ヨハネ騎士団とともに)取り上げたことがあります。
 このたび、同騎士団についての新著が出たので、プロト欧州文明のかたちについての復習を兼ね、その書評等をもとに、改めてこれを取り上げることにしました。
 新著とは、マイケル・ハーグ(Michael Haag)の 'The Templars: The History and the Myth' です。

A:http://www.latimes.com/entertainment/news/la-caw-sirens-call24-2010jan24,0,2366434,print.story
(著者のインタビュー)(1月22日アクセス)
B:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/non_fictionreviews/3557230/The-Templars-unravelling-the-myths.html
(書評。以下同じ)(2月3日アクセス。以下同じ)
C:http://www.catholicherald.co.uk/reviews/r0000551.shtml
D:http://en.wikipedia.org/wiki/Knights_Templar
(Wikipedia)

 なお、テンプル騎士団の正式名称は、「キリストとソロモンの神殿の貧しい騎士仲間達(Poor Fellow-Soldiers of Christ and of the Temple of Solomon)」です。(D)

2 悲劇のテンプル騎士団

 (1)テンプル騎士団

 「・・・第一次十字軍がエルサレムを1099年に占領すると、大勢のキリスト教徒の巡礼達が、彼等が聖なる場所群と呼んだところを訪問するためにそこに赴くようになった。
 しかし、エルサレムの町こそ比較的治安が維持されていたが、それ以外の十字軍諸国(Outremer)はそうではなかった。
 そこは山賊だらけであり、巡礼達は、沿岸部のジャッファ(Jaffa)から聖なる地に至る旅の途中でしょっちゅう殺害され、その数は時には数百人にのぼった。
 1119年頃、第一次十字軍の帰還兵であったフランスの騎士のユーグ・ド・ペイヤン(Hugues de Payens)と彼の親戚であるゴドフレー・ド・サンオメール(Godfrey de Saint-Omer)は、これら巡礼を守るための修道団を創設することを提案した。
 エルサレムのボードワン(Baldwin)2世はこの要請に同意し、テンプル山の<十字軍が>占領したアル・アクサ(Al Aqsa)モスク内にその本部のための一画を与えた。
 テンプル山は神秘的<な場所>だった。
 というのは、それは、ソロモン王の神殿の廃墟の上にあると信じられていたからだ。
 そこで、十字軍は、アル・アクサ・モスクをソロモンの神殿と呼んだ。
 そこから、騎士団は、キリストとソロモンの神殿の貧しい騎士達という名前をとったのだ。・・・」(D)

 「・・・<しかし、>キリストが兵士ではなかったということにこれらの貧し貞潔で従順な僧侶兼騎士達が気が付いていなかったように見えることからすると、テンプル騎士団そのものが最初からずれた方向性を持っていたと言えるのかもしれない。
 彼等は、聖ベルナール(St Bernard)とともに大失敗に終わった第二次十字軍の推進に携わったが、この十字軍は、相互に戦争を繰り返していた周囲のイスラム教諸派の手から聖なる地にあるキリスト教の諸領土を解放することにはほとんど成功しなかった。
 それに比べると、<キリスト教勢力が>着実に南<のイスラム教地域>に向けて再征服して行きつつあったところの、スペインにおいては、彼等はより幸運に恵まれた。・・・」(B)

 「テンプル騎士団が彼等の着衣に纏っていた赤十字は、殉教の象徴であり、戦闘で死ぬことは大変な名誉であって天国行きが保証されると考えられた。
 極めて重要な定めとして、この騎士団の戦闘員達は騎士団の旗が倒れるまで決して降伏してはならなかった。
 しかも、そうなったとしても、他のキリスト教騎士団、例えば聖ヨハネ騎士団(Hospitallers)の下に結集しようと試みなければならないものとされた。
 全ての旗が倒れた後でなければ、彼等は戦場を後にすることは許されなかったのだ。・・・
 <だから、>騎士団長(Grand Master)で<さえ、>畳の上で死ねた者は2人しかおらず、何人もが戦役の間に死亡している。・・・
 ・・・1129年のトロワの公会議(Council of Troyes)で、この騎士団は公式にカトリック教会のお墨付きを得た。
 この公式の祝福によって、テンプル騎士団は、キリスト教圏全体での人気ある慈善団体となり、カネ、土地、事業、そして聖地での戦いを助けたいと希う諸家族の気高い血統の息子達、を受け取るようになった。
 もう一つの大きな恩沢が1139年に得られた。
 法王のインノケンティウス(Innocent)2世が、オムネ・ダトゥム・オプチマム(Omne Datum Optimum=Every perfect gift=あらゆる完全なる贈り物)
http://en.wikipedia.org/wiki/Omne_Datum_Optimum (太田)
なる法王大勅書(papal bull)によって、この騎士団を地域の諸法に従わなくてよいものとしたのだ。
 この勅令は、テンプル騎士団員があらゆる境界を自由に通行でき、いかなる税金を支払う必要もなく、法王を除くいかなる当局にも従う必要がないことを意味した。・・・」(D)

 「・・・12世紀初頭における累次の法王大勅書により、テンプル騎士団は、法王だけに責任を負う、カトリック教会内の独立した恒久的騎士団として承認された。
 その「騎士団長(grand master)」は、一切の外部の干渉なしの選挙でテンプル騎士の地位にある者達の中から選ばれた。
 テンプル騎士団は、騎士団長だけに責任を負う自分自身の僧職群を持つことも認められ、これにより、この騎士団は、欧州と東方における司教管区や主教管区の司教や主教からの独立を担保された。・・・
 聖ヨハネ騎士団もまた戦う僧侶の宗教的騎士団であり、この騎士団の騎士達は、自分達もテンプル騎士団と同じ運命を辿ると思っていたかもしれない。
 しかし、彼等はすぐにキリスト教国であったビザンツ帝国からロードス島を占領することとなり、それを自分達自身の国家に変えてしまった。
 これにより、彼等は、そこから周囲のイスラム教勢力を悩ませることが可能となるとともに、彼等は欧州におけるキリスト教勢力からの守りを提供されることとなった。・・・」(A)

 「・・・テンプル騎士団は、例えばイギリスのヘンリー1世といった国王から結構な土地の提供を受けた、
 ヘンリー1世は、<この騎士団に、ロンドンの>チャンセリー・レーン(Chancery Lane)の端っこの一画を与えたが、そこに現在テンプル教会が建っている。
 ただし、そのモデルはソロモンの神殿ではなく、キリストの墓の場所の上に建てられた、エルサレムの聖墓教会(Church of the Holy Sepulchre)だ。・・・」(B)

 「・・・明確な使命と潤沢な資源をもとに、この騎士団は急速に大きくなって行った。
 テンプル騎士団は累次の十字軍における主要な戦いの前衛部隊となった。
 重武装の騎士達は、彼等の軍馬にまたがり、敵の前線を破るべく敵に向けて突進したのだ。・・・
 こうして全キリスト教圏及び十字軍諸国において富を集積した騎士団は、1150年に聖なる地に旅する巡礼のための債権証書(letter of credit)を発行するようになった。
 すなわち、出発する前に、巡礼は、彼等の貴重品を地域のテンプル騎士団の受付所に預け、その寄託物の価額を示す文書を受け取る。そして、この文書を使って聖なる地に到着した時に自分の基金を回収する。
 この革新的な取り決めは、銀行の初期形態であり、史上初の小切手の使用を支える公的制度であったと言えるかもしれない。
 それは、巡礼を泥棒達にとって相対的に非魅力的な対象とすることによって、彼等の安全を高めるとともに、テンプル騎士団の金庫をより豊かにすることに貢献した。・・・
 <まことに、>テンプル騎士団は、世界最初の多国籍企業であったと言っても良いかもしれない。・・・」(D)

 (続く)