太田述正コラム#3996(2010.5.8)
<中共の「資本主義」(その2)>(2010.6.11公開)

 (2)中共の「資本主義」第一期

 「・・・貧しい安徽(Anhui)省<の蕪湖(Wuhu)>出身の農民、年広久(Nian Guangjiu<(1937年〜。
http://wpedia.goo.ne.jp/enwiki/Wuhu_City (太田)
>)は、(人気のあるおつまみである)ひまわりの種を売る会社をつくり、100人を超える人々を雇い、毛沢東が死んでから10年しか経っていない1986年に、100万元(30万ドル近く)の利益をあげた。
 これらの会社の大部分は、誤解を与えるレッテルたる「郷鎮企業(Township and Village Enterprises=TVEs)」<(コラム#779、2525)>として設立されたため、欧米の学者達は、おおむね、これらの表見的には集団的(collective)会社が、実際には私的会社であることに気づかなかった。・・・」(B)

 「・・・多くの観察者達・・その中から黄はジョセフ・スティーグリッツ(Joseph Stiglitz)を特にやり玉に挙げる・・とは対照的に、黄は、これらの組織は、機能的には私的経営体であったにもかかわらず、政府に登録するための必要に迫られて、集合的存在であるかのような法的擬制を施していた、ということを示す。
 繰り返しこの本に登場する主題の一つは、郷鎮企業が単に地方性を表示しているだけなのに組織的識別子であると外国人観察者達が誤解したように、彼等が、文化的・行政的言辞、及び中共と他の諸国との帰納的違いを引き続きひどく誤解し続けている、ということだ。・・・
 <それは、>「指向性自由主義(Directional Liberalism)」<の時代だったのだ。>・・・」(D)

 (3)中共の「資本主義」第二期

 「・・・1989年の天安門事件後の一斉取り締まり中に、年広久は、不良行為と不道徳な関係をしたという漠然とした容疑で逮捕され、中共における初期の均衡のとれた改革・発展の段階は終焉を迎え、都市中心の1990年代が始まった。・・・」(D)

 「・・・1989年に天安門広場での抗議行動が起きた。
 趙紫陽(Zhao Ziyang)<(コラム#557、613、694、765、779、951、2863、3275、3279)>を始めとする、田舎で人となった政策決定者達の世代は、都市育ちの人々、とりわけ主席となった江沢民(Zhao Ziyang)と彼の首相である朱鎔基(Zhu Rongji)らによって一掃されてしまった。
 このどちらも上海から歓呼の声で<北京に>迎えられたが、1990年代に支配的となったのは「上海モデル」・・巨大な国有企業群と外国の多国籍大企業群を優遇した急速なる都市開発・・だった。
 田舎はこれによって苦しめられた。
 土着の企業家達は、資金を絶たれ、お役所仕事によって首を絞められた。
 他の小規模の私的経営者達と同様、年氏は逮捕され、彼の会社は店じまいをした。・・・」(B)

 「・・・銀行の文書といったミクロ経済学的データを調べることで、彼は、1980年代に追求され、田舎が裨益したところの、自由主義的方向が、その次の、都市開発が優遇された10年間に退行させられた、と主張する。
 分水嶺となったのは、1989年の大震災的な政治的事件たる天安門広場における殺戮だった。
 <その後、>どちらも貧しい内陸地域で勤務した経験のあるところの、胡錦涛と温家宝による現在の指導部の下、上記転換は、若干なりとも再転換されつつある<が・・>。・・・」(I)

 「・・・実際、中共の諸都市ではきらめく摩天楼がにょきにょきと建設され続けており、外国からの投資は爆発的に増え、GDPは引き続き伸び続けている。
 しかし、それには巨大なコストが伴っている。
 国が進路を退行させ、田舎に税金をかけて都市開発にカネをつぎ込んできた結果、平均家計所得の伸びと貧困根絶は緩慢化し、所得不平等と社会的緊張は大きくなった。
 田舎の学校や病院は閉鎖され、その結果、2000年から2005年の間に文盲の成人は3000万人も増えた。
 黄氏によれば、国家が指導する資本主義の最悪の様々な弱点・・きしむ国有企業群に、より効率的な私有企業群よりも依存し、弱い金融部門、公害と蔓延る腐敗・・は、次第により大きく経済を歪めつつあるのだ。・・・」(B)
 
(続く)