太田述正コラム#3798(2010.1.29)
<グラッドストーンとその人となり>(2010.6.8))

1 始めに

 かつて何度か(コラム#312、590、1202で)グラッドストーン(William Ewart Gladstone。1809〜98年)をとりあげたことがありますが、今年は彼の生誕200周年でもあることから、彼の人となりを中心に、改めてとりあげてみました。

2 グラッドストーンとその人となり

 「・・・グラッドストーン<は、>・・・60年以上にわたって英下院議員を務め、<自由党から>首相に4回もなった・・・
 200年前・・・に誕生した、このものすごい人物は、英国の歴代首相の中で最も偉大な首相であったかどうかはともかくとして、彼の伝記を書いたロイ・ジェンキンス(Roy Jenkins)の「彼は人間類型中最も瞠目すべき存在だ」という言に異議を唱えることは困難だろう。
 彼の道徳的誠実さ、知的好奇心、そして今日の英国の政治家全員の上に屹立するすさまじいエネルギー…。・・・
 <そして彼は、>6カ国語にわたる2万冊以上の本を読破し、法王の無謬性から<詩人の>テニソン(Tennyson)についての15,000語の論考に至る夥しい著述<を残した>…。・・・
 ヴィクトリア女王は、彼女のこの首相が、彼女に対し、まるで公の集会で演説するように話しかけることに苦情を漏らしたことがある。
 彼は、自分が「あらゆる会話を議論(debate)に変えてしまう」ことを自覚していた。
 彼の妻のキャサリンも彼に、「ねえあなた、ウィリアム。あなたがこれほどの偉大な人物でなかったとすれば、あなたって堪えられないくらい退屈な人だわね」と言ったことがある。・・・
 1876年に<英国の>自由主義的世論がバルカン半島における<トルコによる>暴虐な行為に憤激した時、グラッドストーンは、辛辣にして雄弁なる小冊子をひっさげて政治生活へとただちに復帰した。
 「トルコ人達よ、今のうちに悪さをやっておけ。その全員を、持ち物と一緒に彼等が荒れ果てさせ涜神行為を行った地から追い出してやろうではないか」と。
 これは、我々が現在自由主義的介入主義(liberal interventionism)と呼ぶ教義の推進を図ったものだが、その最近の帰結はすこぶるつきに不幸なものであった<ことはご承知の通りだ。>
 ところが、1882年に首相に返り咲くと、グラッドストーンは、不面目にもエジプトを攻撃し(注)、帝国主義の最も華やかりし時代の幕を開けたのだった。・・・

 (注)「エジプトで、ウラビの反乱(Urabi Revolt<。1879〜82年。エジプト太守と同国内の英仏勢力に対する反乱>)の一環として1882年6月にアレキサンドリアで暴動が起こり、約300人<(エジプト人約250人、欧州人約50人)>の人々が殺害された。英議会でエジプトに対する怒りと報復のムードが醸成され、英内閣はサー・ボーシャン・セイモア(Beauchamp Seymour)提督によるウラビ<反乱軍>の砲台への砲撃と同市の治安回復を目的とするその後の英軍部隊の上陸を承認した。」
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Ewart_Gladstone
<>内は
http://en.wikipedia.org/wiki/Urabi_Revolt (太田)

 ところで、この意志の強い(driven)人物には極めて寛大な側面があった。
 1890年から91年にかけての大きなドラマは、チャールス・スチュアート・パーネル(Charles Stewart Parnell<。1846〜91年。イギリス系アイルランド人(Anglo-Irish)
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Stewart_Parnell (太田)
>)という、アイルランド人の指導者が、他人の妻の愛人であることが暴露されたことによる失脚だった。
 グラッドストーンは、彼の日記類を通じて判明しているように、性についてはちょっぴり変わっており、<本件では>独善的な態度をとったり道徳家ぶることができたところだった。
 しかし、ジェンキンズが言うように、「彼は偽善者ではなかった」のだ。
 パーネルの件で彼が下した評決は、「何だって。ある人物が一党の指導者だからと言って、彼を検閲したりその信条と倫理観を判定したりするのは当然だと言うのか。そんなことは認めるわけにはいかない。そんなことをしていたら人生は耐え難いものになってしまうだろう」というものだった。・・・
 そのグラッドストーンは、1892年に最後に首相官邸の住人として復帰した時、アイルランドに正義をもたらす決意を固めていた。
 <残念ながら、>彼が提出した2度目のアイルランド自治法案は下院を通過した・・このことをアイルランドのナショナリスト達は往々にして忘れがちだ・・が、上院が廃案にしてしまった<のだが・・>。・・・」
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/dec/28/gladstone-political-giant-intellect-dynamism
(2009年12月29日アクセス)

 「・・・オックスフォード・・・で彼は古典と数学を専攻した。もっとも、彼は数学には大して興味を持ってはいなかった。
 <それでも、>1831年12月、彼は二つの学位で優等となった。
 グラッドストーンは、オックスフォード・ユニオンのディベート・クラブ(Oxford Union debating society)の会長を務めた。・・・
 グラッドストーンは保守党の指導者のベンジャミン・ディズレイリ(Benjamin Disraeli)との激しい競争関係でも知られている。
 その競争関係は、単に政治的なものだけでなく、個人的なものでもあった。
 ディズレイリが亡くなった時、グラッドストーンは国葬を行うことを提案した。
 しかし、ディズレイリは、遺言で単に自分の妻の傍らに埋葬するように求めていた。
 これを知ったグラッドストーンは、「ディズレイリは生前も死後も、すべてが真実さと純粋さが伴わない見かけ(display)だけ<の人物>だった」と評したものだ。・・・
 ・・・ディズレイリはディズレイリで、<グラッドストーンのことを、>「神が犯した唯一の誤り」<と評したことがある。>・・・
 1840年に、グラッドストーンは、ロンドンの売春婦達を助け更正させるということをやり始めた。
 ロンドンの街中を彼自身が歩き、出会った女性達に対し、進路を変えよと促したのだ。
 彼の同僚達は批判をしたが、彼はこれを何十年も、しかも首相に選出されてからも続けた。・・・
 ・・・1885年には、ヴィクトリア女王からの伯爵に叙するとの申し出を断った。・・・ 1896年12月7日付の署名のある「宣言」・・自分が死んでから息子のスティーブン(Stephen)だけが開封できるものとした・・の中で、グラッドストーンは次のように記している。
 「<私は、>・・・婚姻の誓いの違背であるところの浮気としてしられている罪を私の生涯において一度も犯していない」と。・・・
 1890年10月に・・・グラッドストーンは、資本と労働との間の競争について、「それが先鋭な形をとるに至った場合、すなわち、一方がストを行い、他方がロックアウトを行った場合、私は大体において、そして一般的に言って、労働者の側が正しかったと考える」と主張した。・・・」
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Ewart_Gladstone 上掲
(1月29日アクセス)

3 終わりに

 グラッドストーンは、世界中の政治家が見倣うべき人物だと思います。
 しかし、最近の日本の政治家で、グラッドストーンに言及する人はほとんどいませんね。
 鳩山首相、小沢幹事長に、尊敬する外国の政治家を聞いてみたいものです。