太田述正コラム#3794(2010.1.27)
<ロバート・クレイギーとその戦い>(2010.6.1公開)

1 始めに

 ロバート・クレイギー(Robert Craigie。1883〜1959年。駐日大使:1937〜41年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Craigie_(diplomat)
について、読者から質問を受け、急遽このコラムを書くことにしました。
 これは、次著にも使えるかもしれません。

2 ロバート・クレイギーの戦い

 クレイギーは、本国に召還されてしばらく経った後、1943年2月4日付で、アンソニー・イーデン外相宛に最終報告書を提出しました。
http://soc.sipeb.aoyama.ac.jp/ronshu/chosha/kIkeda.html
http://www.jstor.org/pss/312303

 この最終報告書自体は、私は読んでいないのですが、恐らく、クレイギーは、「<1941年11月26日の>ハル・ノートは日本の国民感情を全く無視したもので、あれでは日本として立たざるを得なかった。イギリス政府が私の意見に耳を貸さなかったのは、かえすがえすも残念だ。」
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-keii4.html
といった趣旨を記したに違いありません。

 英LSEのドナルド・キャメロン・ワット(Donald Cameron Watt)教授は、ポール・ケネディ(Paul Kennedy)(コラム#54、96、208、312、858、1141)やスキデルスキー(Robert Skidelsky)(コラム#3788、3790等)らが受賞した、歴史書に与えられるウォルフソン歴史賞(Wolfson History Prize)を1989年に受賞した人物
http://en.wikipedia.org/wiki/Donald_Watt
http://en.wikipedia.org/wiki/Wolfson_History_Prize
ですが、この最終報告書について、彼が書いた論文に対するコメンテーターは、次のように記しています。

 「クレイギーの最終報告書は、「極めて限定的な人々にしか回覧されなかったが、それもイーデン<外相>とチャーチル<首相>の強硬な抵抗に反してなされたのだ。」
 ワットの見解は、クレイギーはリアリストでかつ手強い交渉者であり、米国による対日交渉に遠慮することなく、彼に思うように腕を振るわせておれば、<対日>戦争は回避できていた、というものだ。
 「歴史家達は、英米関係がその後いかなる推移を辿ったかを踏まえつつ、チャーチルの[「英語をしゃべる人々にとって巨大なる便益となる新しい関係」を創造したいという]希望が正当化されうるか、そしてまた、その後、英国のアジアと極東におけるプレゼンスがいかなる推移を辿ったか、かつ、英国が欧州の外でいかなる役割を演じることとなったかを踏まえつつ、英国とその極東と東南アジアにおける市民達や臣民達が支払った生命、希望、そして財貨という形でのコストが高過ぎはしなかったか、について永久に議論を続けることだろう。」<とワットは記している。>」
http://www.maggs.com/title/MI26354.asp

 つまり、大英帝国が瓦解してしまったのであるからして、対日戦争はばかばかしかったとワットは言っているわけです。

 このクレイギーは、駐日大使として着任して以来、一貫して日本と英米との戦争を回避するために尽力を続けた人物です。

 彼の1938年5月26日付の本国宛電信では、オーストラリアが、日本等アジアからの移民の禁止と高関税化を実施後、更に鉄鉱石の輸出を禁止したことで、日英関係に悪影響が及ぶことを懸念しています。
http://www.info.dfat.gov.au/info/historical/HistDocs.nsf/2ecf3135305dccd7ca256b5d007c2afc/199e7263f3d45f69ca256b7d00264578?OpenDocument

 1939年7月22日には、天津事件に関し「有田外相=クレーギー駐日英大使の正式交渉は7月17日からはじま<ったが、クレイギーは>、日本の立場を重んじる一般原則についての協定<を>22日に成立<させてくれ>た」(コラム#3782)上、「有田外相に「イギリスは日本に脱帽したが、アメリカがどう出るか用心しなさいよ」との」忠告をしてくれています(半藤一利『ノモンハンの夏』(253頁)。

 彼の1940年7月4日付のオーストラリア宛電信(オーストラリアからの在日英大使館への出向者の追記付き)では、援蒋ルート(Burmese Road)問題の解消を図らなければ、日本は対英戦争に打って出る可能性があるとし、オーストラリア政府に、英国政府への働きかけ方を依頼しています。
http://www.info.dfat.gov.au/info/historical/HistDocs.nsf/vVolume/4A2E5A19E19CCF33CA256B7E000553FB

 また、<1941年>9月6日・・・、近衞<首相>は・・・日米首脳会談による解決を決意し駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘のうちに会談し、・・・日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。・・・しかし、<米>国務省では妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと考え、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
際には、グルーからこの日本側の動きを知らされたクレイギーは、本国宛に「日本との真の平和の時至れり。米国の冷笑主義によってリアリスティックな政治的手腕の発揮を妨げられてはならない。」と伝えました。
 これに怒ったチャーチルは、外相のイーデンに、「彼(クレイギー)に、米国が、ドイツとイタリア、または日本と戦争に入ることは、英国の諸利益と完全に合致するということを直ちに確実に伝えろ。軍需の分野におけるいかなることも、大英帝国と米国が共に戦う国となることに比べれば物の数ではないと。」と語っています。
http://www.lewrockwell.com/kreca/kreca6.1.1.html

 なお、1944年6月20日に、「英軍需相(Minister of <War> Production)のオリヴァー・リテルトン(Oliver Lyttelton<, 1st Viscount Chandos。1893〜1972年
http://en.wikipedia.org/wiki/Oliver_Lyttelton,_1st_Viscount_Chandos (太田)
>)は、ロンドンの米商業会議所の会員達への講演で、「米国が日本を挑発することによって、日本は、真珠湾を攻撃することを余儀なくされた。米国が戦争を余儀なくされたなどとまで言うのは歴史を愚弄するものだ(a travesty on history)。」と述べた」
http://www.lewrockwell.com/kreca/kreca6.1.1.html 上掲
ところ、リテルトンにこの考えを吹き込んだのは、恐らくは、クレイギーでしょう。

3 終わりに

 どうです、皆さん、クレイギーってすばらしいでしょう。
 そして、リテルトンも。
 しかし、チャーチルが余りのヘボ政治家であって(コラム#3787)、クレイギーらの意見具申を無視して、チャーチル自身よりも更に数段出来の悪いローズベルトと共に日本を戦争に引きずり込んだ結果、大英帝国の瓦解と共産主義勢力の世界的大躍進をもたらしてしまうのです。