太田述正コラム#3782(2010.1.21)
<張鼓峰/ノモンハン事件(その5)>(2010.5.26公開)

 海軍も・・・<1938年>9月に軍令部がまとめた極秘文書『対英感情は何故に悪化したか』<で、>・・・「…英国の繁栄のために、極東における日本の生存権を犠牲にして顧みず、支那の排日反日政府を助長育成したる結果が今日の日支紛争であって、…従って、英国にして日本を圧迫し、その極東繁栄を企図使用とする根本方針を改めないかぎり、日英の国交調節ははなはだ困難であると言わざるを得ない」<と記していた。>・・・
 天皇は・・・6月14日、・・・板垣陸相に、とくに天津事件にかんし注意を与えた。・・・
 有田外相=クレーギー駐日英大使の正式交渉は7月17日からはじまり(注5)、日本の立場を重んじる一般原則についての協定が22日に成立した。・・・

 (注5)日英会談がいよいよ開かれるときまったとき、日本の新聞各社は連名で強硬な共同宣言を発表した。・・・新聞ジャーナリズム<は、>対英強硬でこり固まってしまってい<た>。

 27日、英国にかなりの譲歩を強いたしっぺ返しがアメリカからきた。日米通商航海条約廃棄の米政府の表明である(注6)。・・・

 (注6)日本は、石油を初め各種工業原料の多くを米国からの輸入に頼っていたが、米国は、既に1939年1月に航空機及び部品について事実上の対日禁輸を行い、さらに対日クレジット供与禁止を行っていた。結局、6ヶ月後の1940年1月26日に同条約は失効し、米国の輸出制限措置により日本は航空機用燃料や屑鉄など戦争に必要不可欠な物資が入らなくなった。
http://www.kokubou.com/document_room/rance/rekishi/seiji/nichibei_kousyou/daitoua4-1.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/ABCD%E5%8C%85%E5%9B%B2%E7%B6%B2 (太田)

 国務長官ハルが言明する。
 「日本が中国におけるアメリカの権益にたいし勝手なことをしているのに、なぜアメリカは通商条約を維持しなければならないのか。・・・」・・・」(21〜22、126〜127、130、233〜234、242〜243頁)

 要するにこういうことです。

 日本は、支那における自身の権益ひいては英米の権益を守りつつ、東アジアにおいてソ連の封じ込めを図り、共産主義の支那への浸透を防止すべく、満州を日本の保護国として日本軍をソ連国境付近に展開していたところ、1936年12月12日の西安事件を契機に蒋介石政権が中国共産党との合作に向かい、1937年7月7日に発生した盧溝橋事件の後、中国共産党の画策もあって日本が蒋介石政権と戦争状態に入ったわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%90%88%E4%BD%9C
 こういう事態にあいなったのは、日本に協力するどころか、蒋介石政権等支那の諸勢力による度重なる国際法抵触行為を止めさせようとする日本の足を引っ張り、米国に至っては、蒋介石政権に加担するという日本に対する敵対行動をとったからです。

 もう少し具体的に述べましょう。
 英国は、力が衰えてきていたところ、2万人に及んだ(香港在住以外の)在支那英国人の多数(settlers)の声も踏まえ、東アジアで国際法秩序を維持しようと努力してきた日本に協力するという国益と、日本の企業によってその優位を堀崩されつつあったところの支那進出英国諸大企業(expatriates)の、蒋介石政権等の反日勢力に迎合し、特権を与えられることでかつての優位を回復したいとの思惑のいわば私益との板挟みになって、明確な東アジア政策を打ち出すことができませんでした。
 当時のボールドウィン英首相は、こういう状況下で、英外務省を通さずに日本政府に直接、親日的スタンスの表明を行い続けました。
http://www.yorku.ca/sendicot/DiploReviews.htm
http://www.history.ac.uk/ihr/Focus/Migration/articles/bickers.html
http://www.questia.com/googleScholar.qst;jsessionid=LYRbl8lpS9QWGBhTr0qd2mSsbzq9mbDMQPC5G2QSPyTPc0bPTWpH!505129329!351573012?docId=5002439063
(1月21日アクセス)

 これに対し、不合理としか言いようがないのが米国のスタンスでした。
 米国は、そのキリスト教原理主義的世界観に由来する人種主義的帝国主義政策を東アジアで実践してきており、かねてより、白人国たる共産主義のソ連とキリスト教徒を指導者に戴く容共ファシズムの蒋介石・中国国民党政権にシンパシーを寄せ、日本には敵意を抱いていました。
 これは、自由民主主義国たる米国として、かつまたその国益に照らしても、絶対にとってはいけないスタンスであったにもかかわらず、米国は、あらゆる機会をとらえて、日本に無理難題をふっかけ、日本の足を引っ張り続けたのです。 
 (以上については、コラム#3765のΒΙΙΒさん提供の典拠参照。)

 それでも、けなげにも日本は、ソ連の封じ込めを継続するためにも、支那に親日政権を樹立しなければならないと考え、蒋介石政権の打倒を掲げて日支戦争を継続する決意を固めます。
 このことを宣言したのが、東亜新秩序宣言だったのです。
 この宣言の「抗日容共政策<に>固執する・・・国民政府<の>・・・潰滅」、「東亜に於ける・・・共同防共の達成」という反共産主義/反ソ的文言に注目して下さい。
 そして、「帝国は列国も亦帝国の意図を正確に認識し、東亜の新情勢に適応すべきを信じて疑はず」という、英米に向けての懇願に近い文言に胸を痛めて下さい。
 このような東亜新秩序宣言に対し、満州や支那の日本人居留民や日本のジャーナリズムの言動からうかがえるように、日本人のほとんどコンセンサスに近い支持があったのは、当然過ぎるくらい当然なことだったのです。

 こういう背景の下で、(張鼓峰事件に引き続き、)ノモンハン事件が起こったわけです。

5 終わりに

 シベリア出兵の時、世界の自由民主主義国でまともだったのは日本だけだったと申し上げたところですが、その後も、日本は一貫してソ連封じ込めに尽力し続け、張鼓峰事件とノモンハン事件という形で、自由民主主義国としては、後にも先にもただ一国、ソ連と直接干戈を交え、健闘する、という名誉を担ったことになります。
 その後、更に日本を追い詰めた愚かな米国は、日本をして対米開戦のやむなきに至らしめ、その日本を破り、日本帝国を瓦解させます。
 そしてその直後、米国は成立した中共によって、「アメリカ市民の権利、利益、事業を奪わ」(コラム#3780)れ、キリスト教布教の道も閉ざされた挙げ句、日本に代わって、東アジアにおいて、ソ連の封じ込め、共産主義の一層の浸透の防止に血道を上げる羽目になるのです。

(完)