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太田述正コラム#3780(2010.1.20)
<張鼓峰/ノモンハン事件(その4)>(2010.5.25公開)

 以上を踏まえれば、以下のような日本語ウィキペディアや『半藤』の論調は三重におかしいと言わざるをえません。

 「・・・独断専行を主導して惨敗を招いた辻政信・服部卓四郎ら関東軍の参謀は、一時的に左遷されたのみで、わずか2年後の太平洋戦争開戦時には陸軍の中央に返り咲いた。・・・」(日本語ウィキペディア)
 「・・・積極的な軍人が過失を犯した場合には、人事当局は大目にみるのを常とする。・・・こうした信賞必罰ならざる悪しき慣例・・・」(『半藤』340〜341頁)

 そもそも「惨敗」ではなかった、というのが第一点です。
 しかし、日本側においても、当時の認識は「惨敗」であったのでやんぬるかなです。
 第二点は、(「惨敗」であったという認識の下でですが、)1940年に実施された上層部の人事異動を見ると、「・・・中央部では、参謀総長は皇族なので別格とし、中島参謀次長と橋本作戦部長が予備役に編入され・・・稲田作戦課長は・・・習志野学校付を命ぜられ・・・関東軍では、植田軍司令官、磯谷参謀長が予備役に編入、矢野参謀副長は参謀本部付、寺田高級参謀が千葉戦車学校付とされ・・・敗退の責任<を>最高指揮官と幕僚長<らにとらせた>」(『半藤』340頁)というのですから、日本軍は、この戦いが、独断専行によってではなく、参謀本部、関東軍司令部の全面的な統制の下で遂行されたとの認識を持っていたことが明らかだ、という点です。
 第三点は、そもそも、悪い言葉で言えば独断専行(下克上)、良い言葉で言えばボトムアップは、戦略面でこそ許されないものの、戦術面では、企画においても実施においても、有効である場合が少なくない、という点です。
 とりわけ、日本のように、国民の平均的能力が高く、末端においても、一人一人の能力にばらつきがあまりないようなお国柄においては、極めて有効です。
 (何度も申し上げてきているように、日本は、下克上を大目に見る体制(日本型経済体制)であったからこそ、戦前から、敗戦期を除き、ほぼ一貫して(比較的最近まで)約60年にわたって高度経済成長を続けることができたのです。)
 すなわち、軍事においても、張鼓峰やノモンハンのような局地戦においては、下克上を大目に見ることは必ずしも問題ではない、ということです。
 (他方、日本が最高レベルで戦略的に是非を検討した上で決定し実施すべき満州の保護国化を、1931年に関東軍が下克上で柳条湖事件を引き起こして断行した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89
ことや、強姦・虐殺(ないし捕虜の虐殺?)が行われた南京事件(典拠省略)などの規律の弛緩は言語道断です。)
 ノモンハンで戦った日本軍について、ジューコフはスターリンの下問に答えて、「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」(『半藤』352頁)と答えたことが、やや手前味噌的な形ですが、これを裏付けています。
 要するに、質の面ではともかく、量の面で圧倒的に優る装甲車両群を駆使して戦ったソ連軍、しかも張鼓峰事件に対する報復を期して準備万端を整えて大攻勢をしかけてきたソ連軍に対し、日本軍は、実に良く健闘した、と高く評価すべきなのです。

 しかし、そもそも、どうして日本軍の装甲車両の数がかくも不足していたのでしょうか?
 日支戦争が始まっていたからです。
 蒋介石政権打倒という体制変革をなしとげるためには、広大な支那において、兵力こそ多いけれど質量共に装備面で見劣りのする蒋介石軍や八路軍の正規軍やゲリラを打ち破り、占領し、治安を維持して行かなければならない。
 結局、限られた予算の中で、相対的に装備に割く分を減らして兵員数を増やすという選択を日本の陸軍は強いられ、その結果、関東軍の隷下師団についても、兵員一人あたりの装備が量的にソ連のそれに見劣りするという状態になってしまっていた、というわけなのです。
 それでは、日本は、どうしてこのような苦渋の選択を強いられたのでしょうか?
 その責めは、全面的に英米、就中米国が負うべきである、というのが私の見解です。
 
 それがどういうことかは、張鼓峰事件とノモンハン事件の間に発生した天津イギリス租界事件が如実に示しています。

 『半藤』は次のように記しています。

 「・・・イギリスは・・・天津・・・<英>租界の特権を利用して、国民党、中国共産党、藍衣社(注1)など抗日分子の潜入をだまって見すごしている。しかもそこの銀行には、中国国民政府のための80万ポンドの価値をもつ銀があずけられていた。その資金でテロリストやゲリラが財政的にうるおっている。・・・

 (注1)「蒋介石直属の国民政府の情報・工作機関。正式名称は中華民族復興社。1932年設立。1938年1月解散。・・・日<支>戦争期、日本軍占領地の破壊ゲリラ活動、親日政府要人暗殺などの抗日テロ活動を行った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%8D%E8%A1%A3%E7%A4%BE (太田)

 4万余の<日本人>居留民が怒りをイギリスに向けだしているとき、・・・<1939年>4月9日、日本側に立つ華北政権(注2)の関税委員の程錫庚が、英租界内の劇場で暗殺されたのである。

 (注2)正式名称は、中華民国臨時政府。「蒋介石の国民政府(重慶政権)に対抗するため、<日本の>北支那方面軍等の後援により、1937年12月14日に北京で成立した親日政権で、その委員長は華北の軍閥である王克敏が就任した。臨時政府は、その後南京で成立した中華民国維新政府と並存することとなったが、<1940>年に汪兆銘を首班とする中華民国国民政府(いわゆる南京政府)が南京に「還都」すると、維新政府と共にこれに合流し解消した。」
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/kankei/kankei-china-rinji.htm (太田)

 4人の容疑者はすぐに逮捕されたが、むしろ"事件"はそのあとに起きた。イギリス側が、・・・物的証拠が発見できぬ<として、>・・・4人を日本側に引き渡し裁判にかけることを、きびしく拒んだ。この・・・報は、天津の居留民のみならず、日本人をひとしく憤激させる事件となり、日英関係をきびしく悪化させる結果をうんだ・・・
 6月14日、北支那方面軍・・・の命により、天津に司令部をお<く>・・・第27・・・師団長本間雅晴中将は、・・・英仏租界隔離を断行する。・・・イギリス人通行者にはとくに屈辱的な身体検査を行い、ときには民衆の面前で裸にしたりした。・・・英米が共同戦線をはる<ようなことのないよう、>アメリカ人には決して手をふれようとはしなかった<(注3)。

 (注3)<しかし、>・・・アメリカのハル国務長官は日本大使に、・・・「公衆の面前で、他国の市民を裸にすることは、世界到るところ、普通染み院の蛇蝎視することである。そんなことをしても、それをする政府にとって何事も達成しえない。世界的な憤激と非難とを招くのみである。…アメリカ政府は、日本政府がアメリカ市民の権利、利益、事業を奪わないのみならず、日米両国人民間に敵対心をつくる行動をさけるよう希望する」と・・・厳重注意している。・・・

 方面軍司令部はそのうえで声明を発した。
 「・・・帝国陸軍はイギリスの援蒋政策を再検討することをよびかけている。イギリス租界官僚が『日本とともに東亜新秩序(注4)建設に協力する』との新政策を高くかかげるまで、われわれは武器を捨てることはないであろう」・・・

 (注4)1938年11月3日に時の近衛文麿首相(第1次近衛内閣)が発表した日本、満州、支那3カ国についての構想。その内容は、
 ・・・国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまでは、帝国は断じて矛を収むることなし。・・・
 東亜・・・新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。・・・
 帝国は列国も亦帝国の意図を正確に認識し、東亜の新情勢に適応すべきを信じて疑はず。・・・
というものだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%96%B0%E7%A7%A9%E5%BA%8F (太田)

(続く)

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