太田述正コラム#3776(2010.1.18)
<張鼓峰/ノモンハン事件(その2)>(2010.5.23公開)

3 張鼓峰事件

 この事件については、歴史家による更なる解明が待たれます。

 日本語ウィキペディアは、以下のように記しています。

 「張鼓峰は満州領が朝鮮とソ連領の間に食い込んだ部分にある標高150メートルの丘陵であり、西方には豆満江が南流している。当時ソ連は国境線は張鼓峰頂上を通過していると考え、日本側は張鼓峰頂上一帯は満洲領であるとの見解であった。いずれにしても、この方面の防衛を担当していた朝鮮軍第19師団は国境不確定地帯として張鼓峰頂上に兵力を配置していなかった。・・・
 1938年7月、張鼓峰頂上にソ連兵が進軍し、兵力は次第に増強された。朝鮮軍第19師団がこれを撃退したところ、8月6日になってソ連軍大部隊は張鼓峰頂上付近に総攻撃を開始した。その北方の沙草峰でもソ連軍が攻勢を仕掛け、両高地をめぐって激しい争奪戦が展開された。・・・
 8月11日になってモスクワで停戦が合意された。その結果、第19師団が両高地頂上を死守していた状態での停戦が決まった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E9%BC%93%E5%B3%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6
としています。

 それに対し、英語ウィキペディアは、以下のように記しています。

 「・・・<張鼓峰事件は、>満州国(日本)によるソ連が主張していた領域に対して試みられた軍事侵攻(incursion)である。・・・
 <結局、>日本軍は、ソ連の領域から排除された。・・・」
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Lake_Khasan

 要するに、原因についても結果についても、日本語ウィキペディアは日本側の肩を持ち、英語ウィキペディアはソ連側の肩を持った形になっているわけです。

 ちなみに、『半藤』53頁は次のように記しています。
 「紛争の初期、解決を求めて外交交渉がはじまっている最中に、<参謀本部作戦>課長稲田正純大佐を中心とする作戦課内に、「威力偵察」論にもとづく作戦案が叫ばれだした。しかも、この案に閑院宮参謀総長から多田駿次長、橋本群作戦部長、板垣征四郎陸軍大臣、東條英機次官らの全員が賛成した。ひとり「武力行使はいけない」と反対したのは昭和天皇だけである。しかし作戦課がやる気になっては、天皇の裁可がなかろうが、一直線に突っ走る。現地では陸軍中央が望んだように、火は燃えさかるいっぽうとなったのである。」
 このような重要な話が、日本語、英語ウィキペディアのどちらにも出てこないのは何とも不可思議です。

 日英両ウィキペディアがほぼ一致しているのは、日ソ両軍の兵力と損害であり、戦力は日本軍が20,000+人、ソ連軍が22,950人、損害は、戦死が525(526)人と717人(+行方不明75人)、戦傷が913(914)人と2752人、となっています。

 なお、日本語ウィキペディアだけに、「<ソ連軍の>航空隊も出動し、日本側の第一線に爆撃を行い、さらに編隊を組んで朝鮮の洪儀、慶興、甑山、古城などを爆撃した。」と航空戦についての記述があります。
 他方、英語ウィキペディアだけに、「ソ連の損害<の多さ>は<指揮官の>ワシリー・ブリュッヘル(Vasily Blucher)の無能に帰せられ、10月22日、彼はNKVDによって逮捕され、拷問されて死亡した。」という記述があります。

 全般的印象としては、この事件は、日本側優勢の引き分け、といったところでしょうか。
 天皇の意向に逆らって、陸軍全体が下克上をやっている感がありますが、統制派だって皇道派に負けず劣らず、対ソ敵愾心が旺盛だったことが分かりますね。
 言うまでもなく、その背後には、ロシアや共産主義が大嫌いな日本世論があったわけですが、 問題は、自由民主主義陣営の中で、日本、就中日本陸軍だけが突出して対ソ敵愾心を燃やしていたところにありました。
 天皇が慎重であったのは、まさにその点からであったに違いありません。
 いずれにせよ、ソ連は、この張鼓峰事件の時の借りを返す機会をうかがうことになったと考えられるのであり、ノモンハン事件は、そのためにソ連が仕組んだ可能性が高い、と私には思えてならないのです。

4 ノモンハン事件

 ノモンハン事件は、1939年5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件です。

 この事件に関しては、日本語ウィキペディアが中立的立場をとっているのに対し、英語ウィキペディアが日本側の肩を持っています。

 「・・・係争地では満州国軍とモンゴル軍がパトロールしており、たまに遭遇し交戦することがあった。5月11日、12日の交戦は特に大規模なものであったが、モンゴル軍、満州国軍がともに「敵が侵入してきたので損害を与えて撃退した」と述べているため、真相不明である。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲

 「・・・この事件は1939年5月11日に起こった。
 約70〜90人のモンゴルの騎兵部隊が自分達の馬の放牧地を求めて係争地に侵入した・・・」
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Khalkhin_Gol 前掲

(続く)